私の通っていた高校は長閑なロケーションにだだっ広い敷地、その中にこぢんまりとした校舎を構えていて、それはそれは最寄駅から学校までが遠く、生徒全員駅から自転車に乗るという通学スタイルでした。


校則なんてあったのかなーというくらいよく言えば自主性を重んじる、平たく言えば放任という校風で。


理系大学の付属にもかかわらず数学が苦手な私は高校1年で留年しかけるという憂き目に遭い(自業自得ですが・・・)春休みに毎日補習に通いなんとか2年生に進級。


そして、早々に国立大学だの共学だのは諦め、2科目で受験できる女子大に的を絞りました。


そうなるとほとんどの科目は受験には不必要。

でも赤点だと卒業できないし・・・


困ったな、と思っていた矢先の進路指導で担任の世界史N先生に

「なんでこう高校生になると勉強って急に難しくなるんですかねー」

と相談というより愚痴をこぼすと

「僕の授業の時には、必ず国語か英語の勉強をするように」


と質問の答えではないものの世界史免除の公認☆いただきました!


3年生の最後の世界史のテストで本当になーんにも勉強していなかった私は、授業中にどこかの国の王様のニックネームが「大ピピン」「中ピピン」「小ピピン」で、これはテストに出しますよー!と言っていたことと、響きのキャッチーさで唯一それだけは記憶していて、すべての解答欄に「ピピン」と記述して0点は免れた~と安堵していました。


そしてその1問正解5点の解答用紙が返されると、点数にはなまる、そしてその横に「よく頑張りました!」と書いてありました。


まだまだ子どもだった私は世界史勉強しなくてラッキー!って思っていたけど・・・


N先生は自尊心より生徒である私の未来をこんなにも尊重してくれたんだ、ということに気がついたのは恥ずかしながら卒業してだいぶ経ち、社会人になってからでした。


あの頃のN先生はきっと40歳くらいだったかな。


あと7年で私もあんなに大きな器の人間になれるかな・・・




そんな自由な校風の中で子どもから大人への人格形成期をともに過ごした友人たちはしばらく疎遠になっていたものの、病気になってすぐのいちばん不安な時に彼らには会っておきたいなってなぜか思いました。


彼らと連絡を取っている友人Eに

「はいはーい、ピッピまずいから集合~!」

と声をかけてもらい、傷がまだ痛む去年の夏に5年ぶり、だいぶご無沙汰の友人だと10年ぶりの再会。


久しぶりに6人が集うと、高層ビルの最上階のお店の個室が教室のよう!


うるさーーい!!!


誰も私の病気のことに触れず、喋って笑って、解散。


お店から徒歩で帰宅中の私に彼らから

「元気そうでよかった。また飲もう!」

とひとこと。


素っ気ないんだか優しんだかわからないこの距離感は、あの少し早めのモラトリアムを共有した友人たち独特のものなんだろうな。




テンションが高校時代のままなので体がもたないから半年に一度の集合でカンベン!と全員が言っていて、次に集まったのはGW。

久しぶりに集まっても各々携帯を見てたり・・・

☆また明日☆32歳、卵巣がんになりました。

そんな彼らも散々蛇行はしたものの、ひとかどの人間になりつつあって。

最近独立して、専門書を上梓した友人SはあとがきにN先生に高校時代に言われた言葉がずっと心に残っていてここまでこられました、と書いていた。

☆また明日☆32歳、卵巣がんになりました。

友人Eはお誕生日が私の手術の日と同じ。

これからはともに祝っていきましょう!


☆また明日☆32歳、卵巣がんになりました。