さて、旅行記も全く進まない中おかしなテーマでブログを書くことをお許し願いたい。
色々と思うところもあり、自分の考えのメモとしてこのコーナーを使えればと考えている。5年・10年後、これを見返したときに、ジュブナイル的ないや今風に言えば厨二的な考えをしていたのだと思うのか、その時に目を覚ますきっかけになるのかは解らないのだが・・・・。
(テーマの通りお酒をの力を借りているからこそ書けるメモとも・・・・・・。)
今日は「 理解 」と言うことについて思うことがあったのでメモしたいと思う。
いきなり結論を書くが、「 人は、他人を完全に理解することは無い 」と言うことが今回のメモの結論である。その上で現状が私の目にどう映るか、それをどうして行きたいかと言うことを忘れないようにメモして行こうと思う。
私のイメージであるが、人の心とは「 水 」の様に常に変化をし決まった形を持たないものと考えている。刻一刻、その形を変えるもの、佇む場所で水底を見せるか・その底を覆い隠すかその表情を変えるものではないか?
そう考えた時に、国民の意を理解しそれに答えると言う言葉・相手の心を解すべしと言う言葉が空虚なものなのかと考えられないだろうか。
そうした前提で、相手を理解できないのであれば複数の人間がいれば恐らく2つのシンプルな答えに帰結するのではないだろうか。それは、「 相手をねじ伏せ自分により近い考えにする・又は自分につき従うようにする 」ものと、「答えの出ない問題を永遠と解き続け相手を思い図る 」の2通りになるのではないのだろうか。かなりの極論もしくは暴論であると自分自身「 理解 」いや 「 予想 」をするが、それほど的の外れたことではないのではないのだろうか。
他者の思考を自分に近づけるよう強制すれば大きな歪を作り出す可能性は高い、後者であれば気を許せばこちらが飲み込まれる危険もある。シンプルに考えても既にジレンマが生まれている。
では、他者を理解しようとすることは無駄なことなのか?ここについては私ははっきりと「 No 」と答えたい。
相手を理解すると言うこと、この問いの答えは「 理解できる 」 or 「 理解できない 」との明確な答えで判断しようとすることが無駄なのではないだろうか。
本当に必要なのは、「 相手を理解しようとする過程 」なのではないか?
ここで、理解できないからどうでも良いと諦めるのか、理解できないのなら理解しようと勤めるのかでは真の答えは同じでももたらせされる結果は異なるのでは似のだろうか?
話は飛んでしまうが「 果実 」を思う浮かべ欲しい、果実の真の目的は子孫を残すと言うことであるが人は果実の果肉の部分に多くの意味を見出している。理解と言う事象も同じで、理解とは実現不可能に近いものであるが「 理解しようと勤める行為に多くの利用価値があるのではないか 」と私はグラスに口をつけながら不意に思ってしまう。
こんなことを考えながら杯を重ねている事にいささか・・・・・大変赤面をするが、グラスを煽りながら眉間にしわを寄せてしまった。
いつも心に留めている言葉に、「 世の中、スイッチを押して電灯がつ様にシンプルなことは皆無である 」と言うことがある。そんなにシンプルならばどれほど楽だろうか。
誰かを理解することは無理だが、「 理解しようと勤めることに意味がある 」と文字の色を変えて・・いや蛍光マーカーで線を引いていこうかと思う。
それにしても、世の中には「 阿吽の呼吸 」を身に着ける人もいれば「 果実の中の実は芽吹く 」と言うことからこの考えも既に水面に映る風景と同じくらい曖昧なものなのだろう。
ただ1つだけ確かなものは、「 簡単に出る答えなどその程度のもの 」過去の偉人の言うとおり「 人は考える葦 」よろしく、「 理解した 」ではなく「 理解しようとする 」と言うことが必要なのではないだろうか。
それにしたって人の思考は利己的で、自分の考えが相手の考えであって欲しいという先入観を持ってともするのも間違いない・・・・・・。
軽々に、「 理解 」と言う言葉は使えないっとメモをしておこうと思う。が、同時に「 理解しようとすることに意味がある 」言い換えれば、「 思考をとめないことに意味がある 」と言えないだろうか?
ああ、廚二っぽいメモだね~。って先にメモに付け足しておきますわ。
早く旅行記書き上げたいんですけどね・・・・
色々と思うところもあり、自分の考えのメモとしてこのコーナーを使えればと考えている。5年・10年後、これを見返したときに、ジュブナイル的ないや今風に言えば厨二的な考えをしていたのだと思うのか、その時に目を覚ますきっかけになるのかは解らないのだが・・・・。
(テーマの通りお酒をの力を借りているからこそ書けるメモとも・・・・・・。)
今日は「 理解 」と言うことについて思うことがあったのでメモしたいと思う。
いきなり結論を書くが、「 人は、他人を完全に理解することは無い 」と言うことが今回のメモの結論である。その上で現状が私の目にどう映るか、それをどうして行きたいかと言うことを忘れないようにメモして行こうと思う。
私のイメージであるが、人の心とは「 水 」の様に常に変化をし決まった形を持たないものと考えている。刻一刻、その形を変えるもの、佇む場所で水底を見せるか・その底を覆い隠すかその表情を変えるものではないか?
そう考えた時に、国民の意を理解しそれに答えると言う言葉・相手の心を解すべしと言う言葉が空虚なものなのかと考えられないだろうか。
そうした前提で、相手を理解できないのであれば複数の人間がいれば恐らく2つのシンプルな答えに帰結するのではないだろうか。それは、「 相手をねじ伏せ自分により近い考えにする・又は自分につき従うようにする 」ものと、「答えの出ない問題を永遠と解き続け相手を思い図る 」の2通りになるのではないのだろうか。かなりの極論もしくは暴論であると自分自身「 理解 」いや 「 予想 」をするが、それほど的の外れたことではないのではないのだろうか。
他者の思考を自分に近づけるよう強制すれば大きな歪を作り出す可能性は高い、後者であれば気を許せばこちらが飲み込まれる危険もある。シンプルに考えても既にジレンマが生まれている。
では、他者を理解しようとすることは無駄なことなのか?ここについては私ははっきりと「 No 」と答えたい。
相手を理解すると言うこと、この問いの答えは「 理解できる 」 or 「 理解できない 」との明確な答えで判断しようとすることが無駄なのではないだろうか。
本当に必要なのは、「 相手を理解しようとする過程 」なのではないか?
ここで、理解できないからどうでも良いと諦めるのか、理解できないのなら理解しようと勤めるのかでは真の答えは同じでももたらせされる結果は異なるのでは似のだろうか?
話は飛んでしまうが「 果実 」を思う浮かべ欲しい、果実の真の目的は子孫を残すと言うことであるが人は果実の果肉の部分に多くの意味を見出している。理解と言う事象も同じで、理解とは実現不可能に近いものであるが「 理解しようと勤める行為に多くの利用価値があるのではないか 」と私はグラスに口をつけながら不意に思ってしまう。
こんなことを考えながら杯を重ねている事にいささか・・・・・大変赤面をするが、グラスを煽りながら眉間にしわを寄せてしまった。
いつも心に留めている言葉に、「 世の中、スイッチを押して電灯がつ様にシンプルなことは皆無である 」と言うことがある。そんなにシンプルならばどれほど楽だろうか。
誰かを理解することは無理だが、「 理解しようと勤めることに意味がある 」と文字の色を変えて・・いや蛍光マーカーで線を引いていこうかと思う。
それにしても、世の中には「 阿吽の呼吸 」を身に着ける人もいれば「 果実の中の実は芽吹く 」と言うことからこの考えも既に水面に映る風景と同じくらい曖昧なものなのだろう。
ただ1つだけ確かなものは、「 簡単に出る答えなどその程度のもの 」過去の偉人の言うとおり「 人は考える葦 」よろしく、「 理解した 」ではなく「 理解しようとする 」と言うことが必要なのではないだろうか。
それにしたって人の思考は利己的で、自分の考えが相手の考えであって欲しいという先入観を持ってともするのも間違いない・・・・・・。
軽々に、「 理解 」と言う言葉は使えないっとメモをしておこうと思う。が、同時に「 理解しようとすることに意味がある 」言い換えれば、「 思考をとめないことに意味がある 」と言えないだろうか?
ああ、廚二っぽいメモだね~。って先にメモに付け足しておきますわ。
早く旅行記書き上げたいんですけどね・・・・


