上の2人から見て、
私は末っ子に対して
甘いと感じる部分が
大きいようです。
ディスカッションを深めると
平等性はある程度担保されているし
決して差別的であったり
不平等とまではならない事案ばかりです。
往々にして子どもたちは、
自身の不満や理不尽という思いをベースに
他児の優遇される姿と比較します。
「同じこと」という捉え方が
そもそも違うので、
私の言い分に納得させてしまいます。
例えば
❮宿題をする❯❮しない❯
その行為に対する覚悟が
違います。
しない。
そう?じゃ、学校にそのまま行くのね?
やだ。
じゃあ、しなさい。
ここで、には
宿題をせずに学校へ行く覚悟はありません。
だから、私は、
どうせするのだから、
「やれ」というスタンスです。
しない。
しなさい。
なんで?
賢くなるからよ。
ならなくていい。
それはお母さんが困るからしなさい。
やだ。
ほら、一緒にするよ。
ここで、は、
本当にしないで学校に行く覚悟があります。
だから、私はむしろお願いして
宿題をして貰う立場になり変わります
私が「どうせ困るのはあなた自身」と
を突き放す勇気が持てたら
プロセスも結果も変わってくるかもしれません。
でも、リスクが大きすぎて勇気がありません。
も
と同じように
出さなきゃいけないと思ってるのであれば、
私がチキンレースで負けたという構図です。
そして、これが
「私にはしなさい、
なのに、には『一緒に』って。」
と、末っ子に甘い
という主張になってくるのです。