アメンバー記事にしてあるのは書いた記事を残すためです。
どうしても気になるという人は申請していただきたいです。
何を書いたのか、要点をまとめると、松平容保という人は誠実に任務をこなし、孝明天皇の防御のために命をけづって
誠心誠意取り組んだことは間違いない。が、あまりにも要領が悪るすぎる。
京都守護職などに就けば、会津藩は破滅すると主君、家臣ともども意識していながら、禁門の変ノ長州藩士の行動は
絶対に許してはならないと、幕府滅亡の最大の引き金となる長州征伐を最も熱心に主張していたのは会津候である。
一方で守護職を続ける続けないということではずっとやめようとしていたのに土壇場で罷免されるまで、一橋慶喜や幕閣の完全な言いなりで主体的立場を取れていない。
もうまったく中身が違うので比較してはいけないのだけど、彼らの元の先祖である戦国大名だったら絶対にこんな矛盾した行動はとらないです。無駄だと思ったらやめて、やりたくないと思ったらさっさと引き上げるだけです。
武将ってそういうものでしょ。あれもこれも人から命令されて、仕方なく任務に就く。
そんなの武士とは言わないんですよ。
現に鹿児島の島津久光などは藩主のように見えて実際は正式の家督は継いでおらず、藩主は自分の息子です。
藩主のお父様という謎の立場で請われてもいないのに勝手に大砲を引きずって京都に出てきて、そのまんま
江戸まで建白に来て帰りは船でさっそうと鹿児島に帰ってしまいます。この行動に何の正統性もありません。
全部自分で勝手に行動して勝手に帰っています。幕府の権威が強い時代なら、命令もされていないのに大砲をもって京都に出てきただけで切腹、薩摩藩はお取り潰し。それぐらい法的にはめちゃくちゃなことを平気でやっています。
一方松平容保は義理と義務でがんじがらめにされた会社に逆らえない、昭和のサラリーマンや官僚の中間管理職の悲哀を感じます。
そのくせことが朝廷に及ぶと、絶対に長州を許してはならないとか、入れ込み具合がヒーツアップしてしまって陸軍の天皇神聖化のようなことをやっています。
最後に会津征伐の悲惨さと不当性がよく言われることですが、これも仲介に入って降伏の手助けをしていたはずの仙台藩が、東北諸藩はみんな敵と思えという、政府軍どうしの通信の一文を盗み読みして、立ったこの一言のために
自分たちも成敗の対象なのかといきり立ち、政府の参謀を襲撃して殺してしまいます。
これが開戦の発端なので、巻き込まれ事故なのです。
何が何でも降伏。絶対に攻撃させないという徹底した行動をとらずに状況に流されて、攻めてくるならこっちも武士の意地があるからやってやる、というような姿勢を続けた結果、短慮の仙台藩の行動で本格的戦争に発展しました。
会津藩が戦争をしようと思っていたことではないです。それなのによその藩士の行動で会津藩全体の運命が左右されてしまいました。幕末の歴史の中で、会津開戦の理由を作った仙台藩士というのはほんとうにゴミのような存在で、なんの時歴も残っていないただの田舎侍です。東北諸藩は敵と書いてあるのを見てそれだけで政府軍参謀を殺してしまいました。会津は何も悪くないので征伐に来ることは絶対に許さない、最後の一兵まで戦ってやるという方針があって降伏しなかったわけでもないのに、こんな奴らに自分の運命を決められてしまうのです。
会津と松平容保の行動には最初から悲劇的な運命に発展する、非主体的な姿勢が充満していたという事を指摘しました。
勤王と藩祖保科正之公の藩命に忠実に従って命を懸けていているのだが、これを名君と呼べるかどうか。
名君というのは過分に江戸時代儒教的価値観の代物で、源の頼朝は名君と呼べるか、織田信長は名君と呼べるかと言ったら全くそんなことはないですね。かれらはいずれも似ても焼いても食えない荒くれ者たちを見事に統率して天下を縦横に働きまくった、そういう傑物ですね。松平容保はまじめで誠実なだけで機を見る、ということが全くできない。主筋である一橋慶喜に対して、独立した大名としてなんら主体的姿勢を取れない。そういう窮屈な制約の多い無理だらけの行動をしているという事です。
福山藩主阿部正弘公に続いてなぜ、松平容保が連想されたかというと、福山候は会津候とはまさに対照的に、最後は病気で急逝してしまうのだけど、老中首座としてがっちりと主権を握ったうえで可能な限り破綻なく、柔軟な可能性を探っていく、どこまでも柔軟な姿勢が際立っているのです。それが道半ばで立たれることも無念なのですけど、福山候のあとに、規制や藩命で忠節のためにがんじがらめのなかでひたすら無理を重ねていった会津公とその藩の運命というものが想起されました。