旅先で義母が文庫版を貸してくれて読みました。



今の私にとって、深い意味を持つ本でした。


この小説は、

脳死状態になった娘と共に生きて行こうとする家族、

そしてその周りの人々を描いたお話です。


科学技術の進化による可能性、脅威と、
論理だけでは測る事のできない人間の心の機微が共存している話でした。


クライマックスには、「新しい技術が人の人生を豊かにする温かいものであって欲しい」という願いが込められている気がしました。



私は、4年前に次女を0歳の時亡くしています。
SIDSでした。 


明け方に娘の呼吸が止まっているのに気づいた時、
冷たくなった娘に必死に心肺蘇生をしながらも、
もし植物状態になってしまったらどうしよう、

世話できるだろうかという思いが頭をよぎってしまいました。


その時、そんな風に思ってしまった事を今でも忘れられません。

そう思ってしまった自分自身がつらかったです。


私は産後、心身がボロボロで限界だったので、
これ以上育児を続けられないという状態で、
そんな考えがよぎってしまったのだと思います。



この小説を読んで、自分自身の脳死判定についての知識が乏しかったことにも気づかされました。


この小説によれば、心臓や他の臓器が動いていても、

脳が機能していなければ脳死となり、家族が望めば脳死患者は臓器提供をする事ができます。

つまり、脳死判定されれば死亡とほぼ同義になり、必ずしも介護しなければいけないとは限らないようです。



この小説を読んだ後、

もしもあの時にもっと早く娘の異変に気づいていて、

そして脳だけが機能しないまま心肺蘇生されていたなら、

自分はこの本に出てくる主人公の薫のように介護し続けただろうかと自問しました。


他人事だとは思えない話でした。



私にとって、次女はずっと私の娘です。

次女が年を取る事はないけれど、ずっと一緒に生きていると思っています。


でも、あまりこういう話をしたり長女はひとりっ子ではないと言い張ると、奇異に思う人もいるのだろうなと思います。



だから、主人公の薫子が娘の瑞穂にこだわる気持ちも、周りの人の戸惑いも分かるような気がしました。


『自分の子の脳死を受け入れ、他の子供の命を救おうと決意する。』


言葉にすると一行で済む行動を描くには、一冊の小説が必要な程の葛藤やドラマがあるのだと思いました。



結論を出すのが難しい物事を、

多くの人に届く形にして、読者に自分の事として立ち止まらせ、考えさせること。



それは小説にしかできない事で、この物語の持つ力だと感じました。