大田市仁摩町馬路  鳴り砂の浜で知られる<琴ヶ浜海岸>に沿って西へ、石見銀山時代の交易の港であった<鞆ヶ浦港>に向かう途中、左の小高い丘陵の陰に、塀に囲まれた白壁の大きなな屋敷<山﨑やまさき)家>がある。その初代は、毛利元就の重臣・松浦但馬守で、第二代・善右衛門は天領銀山初代奉行・大久保長安と共に銀山の開発に携わるなどした。

 

 このように、石見銀山の歴史を語るに欠かせない旧家・山﨑家だが、当家は、本因坊道策ほかの囲碁名人を何人も輩出した家でもある。広辞苑に、<本因坊>は、江戸幕府碁所(ごどころ)四家の筆頭、京都寂光寺本因坊の僧・算砂(さんさ:1588~1623)を祖とし、実力によって争奪される選手権の名称の一つ。同じく<本因坊道策>は、江戸初期の囲碁棋士、四世本因坊(1645~1702)。名人碁所・段位制を確立。碁聖・棋聖と称される。石見の人・・、とある 

 

 今少し資料を辿ると、道策は二代善右衛門の二男で、本名三次郎。母は芸州(広島県)渡辺氏の出で、肥後(熊本県)の大名・細川綱利の乳母であったハマ。三次郎(道策)は7歳で囲碁を始め、14歳で江戸に上り三世本因坊道悦に師事し頭角を現し、23歳で上手(うわて)7段に。

 

 この頃、本因坊家に請われて跡目(養子)となり、33歳で四世本因坊、58歳の生涯であった。法名を日忠。なお実弟千松は(家元四家の一つ)二世井上因碩(道砂)。更に後の九世井上因碩(因砂)もまた山﨑家の出だ。

 

 また、母ハマは子女の教育に厳格であったと言われ、道策幼少の頃は日々稽古の後に成果を問い、答えられ無い時は、裏の井戸で、冷水を浴びせたとの逸話もある。<切諫(せっかん)の井戸>とも言われた、その井戸は今も水を湛えて健在であった。道策については、地元は勿論多くの囲碁愛好家・研究者のほか文献資料も多く、私など門外漢が論ずる域ではない。

 

 ただ、人麻呂・雪舟と並び<石見三聖>と呼ばれる偉人の生家が、石見銀山遺跡の一角仁摩町馬路の山﨑家で、しかも銀山との深い関わりを知るに至り、銀山の旅でまた一つ地元の誇りを再発見・再認識することとなった。これもまた、地元好きの気まま旅の収穫だ。

 

 またも唐突だが、自然豊かで風光明媚なこの地にある本因坊道策の生家の、由緒ある山﨑家の客間で、高山や城上山を借景にした端正な庭を愛でながらの<本因坊戦>が実現したら!などと思うのは無謀な夢物語だろうか。囲碁愛好家ならずも地元大好き人間としては、大いに夢の膨らむところだ。 

 

 報道で、よく立派なホテル・料亭での<本因坊戦>を観るが、ここ山﨑家も十分のシチュエーションに思えて、是非とも一局お願いしたいものだ。

 

 応対して頂いた奥様は気さくな方で、何回かお邪魔する中でそんな話をしたら、「そういう関係の方を知りませんので・・」と、その折には全否定は無かった。

 

  なお、お住いのお宅は公開されていません。お出かけの際は、特段のご配慮をお願いします。

 ※ 元記事 2006.11