老子 道徳経 下篇
第79章
天なるタオは常に善人の味方
原文
ホーダーユエン ビーヨウユイユエン
和大怨 必有余怨。
アンコーイーウェイシャン
安可以為善。
シーイーションレンジーズオチー アルブーゾーユィレン
是以聖人執左契 而不責於人。
ヨウドースーチー ウードースーチョー
有徳司契 無徳司徹。
ティエンダオウーチン チャンユィシャンレン
天道無親 常与善人。
許したフリでは怨みが残るから
アメ語訳
アメのフタコトミコト
天なる道、
太陽のことを「お天道様」と呼ぶね。
太陽はいつも公平にみんなを照らす。
老子の読経を通して、
自分のポジティブな側面(陽) が
照らし出される。 と、同時に
自分のネガティブな側面(陰) も
あぶり出される。
そして
「見守っているから大丈夫だよ」と
この章で、陽と陰が癒されて
お天道様やお月様のような
真ん丸の自分になっていきます。
この章に着くまでに
陽の知性・陰の感情と
陽の感情・陰の思考とを目の当たりにした
順を追った伏線がひとつに回収されていく。
そんな出来事が起こる頃。
長編のシンクロニシティだったと
明かされるでしょう。
- - - - - - - - - - - - - - -
司馬遷はこの章について
公平なら善人ひいきをしないのでは?
と疑問をもったそう。
個人的には
1度目に訳した際は
善人の味方をするのが公平と云ったのは
老子なりの道家たちへのエールかと響いた。
タオは究極ゆえにとても地道だから。
2度目に訳した際は
ヒット映画や人気アニメや小説も、
誰かの復讐心が発端となるストーリーが
ほとんどなかなかに多いですし、
人間の闇も自然発生的なものかと
俯瞰して眺めている自分がいた。
3度目に訳した際は
ただただ「そうだ」と頷いた。
お天道様は見ている。
※ 司馬遷は「史記」の著者。
「史記」に老子列伝が書かれてある。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼