老子 道徳経 上篇
第18章
綺麗事が掲げられるワケ
原文
ダーダオフェイ ヨウレンイー
大道廃 有仁義。
ヂーホイチュー ヨウダイウェイ
智慧出 有大偽。
リウチンブーホー ヨウシアオツー
六親不和 有孝慈。
グオジアフンルアン ヨウジョンチェン
国家昏乱 有忠臣。
書き下し文
大道廃れて仁義有り。
智恵出でて大偽有り。
六親和せずして考慈有り。
国家昏乱して忠臣有り。
よくよく考えてごらん
アメ語訳
感謝の気持ちとか思いやりとか
本来は自然なままで溢れてくるもの。
なのに
作為を増やして自然本来を忘れるから
思いやりを持てだの約束を守れだの、
わざわざ美徳みたいに掲げだした。
根拠を追って知識をつけるから
人々は偽りのずる賢さまで覚えだした。
それで
家族がもめるようにもなったから
親孝行だの慈愛だのまで
いちいち教義みたいに説かれだした。
さらには
国家がぐたぐだするようにもなったから
忠誠な大臣がもてはやされだした。
( ねぇ、そんなのってさ
わざわざ誰かに教わること?
いちいち暗記して覚えること?
「ありがとう」って溢れ出る本能よ?
家族を大切にするのって自然本能よ? )
住吉大社にて
アメのフタコトミコト
なぜそれが存在するのか
よくよく理由を考えてみると
背景が見えてくるね。
そしてこの章もよくよく解けば
決して
仁義や知恵や慈愛や忠誠を
否定しているわけではない。
物事の真理を深く見ぬくコツを
投げかけているように思う。
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