19日に24回目の鹿児島起立性調節障害親の会を開催しました。
.その前日に親の会の連絡先宛てに明日の会に参加したいと参加申し込みがありました。


「約10年ほど前に三男が5年間ほど悩まされました。
少しでも参考になれば体験をお話しいたしたいと思います

というメールをいた
だきました。
鹿児島の親の会の申し込みは予約制になっているため、子どもさんの状況や周りの理解についてお尋ねしてから参加していただいています。
そのことをお伝えしましたら、折り返し、たいへん丁寧に息子さんのODの経過やご家族の息子さんへの対応、体験を通して分かったことなどを文章にまとめて送ってくださいました。
それを拝読させていただくと、私と二男のODとのかかわりに共通する部分がありました。
今から10年前というと二男が15歳で学校へ行けなくなった時でした。
本人もわけが解らない状態だったと思いますが、親の方も同じでした。
起立性調節障害の認知度が低く、お医者さんでも理解されていない時代で
同じような経過をたどった子ども達です。
そんな中で、親子でODを乗り超えられ、今は、元気で活躍されている息子さんのODの体験をお聞きすることは大変貴重なことです。

当日は体調の関係があって長時間の参加は難しいということでしたが、参加していただきました。
残念ながら、途中で退席されたため、直接詳しいお話を聞くことはできませんでした。
 少しでも、参考になればと送ってくださった体験談をぜひ、ODに関係する方々で共有させていただきたいと思いブログでの公開をお願いしたところ快くお許しいただけました。

お父様の、今が渦中の苦しんでいる方の力になりたいというお気持ちに感謝申し上げ、皆さんにご覧いただきたいと思います。



息子の起立性調節障害を体験して 60代男性

私どもには、現在34歳の長男、32歳の長女、29歳の次男、26歳の三男の子どもがいます。
 起立調節障害で中二辺りから不登校だった三男は、現在、何事もなかったかの様に相模原市でWeb関係の事業で生計を立てています。

 当時を思い出しますと周囲の無責任な言葉には泣かされましたが、日に日にキツネに取り憑かれた様な顔つきになっていく三男に対しては、兎に角“普通の生活“に引き戻してやる … 私たち夫婦の意地だけでした。

 何も分からない最初のうちは、朝一で、朝食と着替え、そして三男をクルマに押し込み姶良から鹿児島の中学校の正門まで強引に連れて行きトンボ帰りで職場への日々が小一年ほど続きました。 
中高一貫の私立中でしたが、学校側も理解してくれ、何よりも保健室の先生が親身になってくださり、午前中は保健室、午後からは教室という学生生活が続きました。
それも2年の終わりには朝起きられなくなり(起き上がると100から70位に血圧が低下)、ことの深刻さが私達にも分かる様になり、とうとう三男は起き上がるのにお昼過ぎの2時ぐらいまでかかる様になりました。
処方されていた精神薬は怖くて飲ませていませんでした。
投薬し始めたら酷くなっていくような恐怖感があったのです。確か当時はツムラ薬品の漢方薬だけは服用していました。
引き篭もりの三男が自殺しているのではないかといつも心配で、お昼は毎日家に帰って三男の無事を確認してはホッとする日が続きました。

兎に角このままではいけないと、色々調べて朝の光とアニマルセラピーが効果があるのではと考え、妻と相談して強引に起こさせて、朝の洗濯物を干させる様にしむけました。 
 それから三男が可愛がっていたペットの芝犬の散歩を朝にさせました。
 既に中3になっておりましたが学校には殆ど行っておりませんでした。
 このままでは高校を卒業して大学へ進学するという…当然と思っていた上の3人の子どもたちの様にはいかないだろうなと諦めてもいました。
 しかし兄弟と違い自分だけが高校も行けないとなると益々自信をなくしてしまい自暴自棄になるのではとそれが心配でした。

 この頃、大学入学検定試験制度が変更され高卒認定試験に内容も緩和され変わっていました。
 本人に制度の説明をして人よりも一足早く大学受験資格を取る様に前向きな目標を立てさせるようにしむけました。
今でいうコーチングという技術でしょうか。

 初年度挑戦で数学や国語などは成績は下の方でしたが、数科目合格しました。
3回ほど挑戦して積み重ねた結果、同級生らがまだ高校2年の冬には大学受験の資格を取ることができました。
 この頃には筋力も身体の成長に追いついた様で血圧低下も以前ほどではなくなり、あとは精神面が大きくウエイトを占める様になってきました。
 人よりも一歩早く受験資格を取ったことが自信に繋がり、対人恐怖症だった性格を変えようと本人からアルバイトをやりたいと言ってきました。
 しかも同世代の人が沢山集まるアミュプラザの地下にあるフードコートでのアルバイトでした。自分で面接に行って自分で待遇なども決めてきました。
 この頃には一対一の学習塾にも通い始め、人より遅れているぶんを早く埋めるため独学で受験勉強を始めました。
 第1志望ではなかったのですが、2年挑戦して何とか大学に入学することができました。
 結局、二浪と同じになりました。
 しかし大学入学は果たしても、起立調節障害に罹ったときから続いているゴロゴロ腹痛とガスには授業中や試験中の間も悩まされ、大学を卒業しても続いていたようです。

 思春期の子ども達にはかなりの割合で発症するといわれ、不登校の原因の割合が多い起立性調節障害は、今でこそ病名も聞くようになりましたが、その当時の鹿児島では人に相談しても、“親が甘やかせ過ぎだから…。“など心ない言葉が返ってくるだけで、親子でヒッソリと耐え忍ぶ状況でした。
こんな時に支えてくれたドクターがM先生でした。
小学校医でもあったM先生は時間をかけて診て(殆ど話しだけだったようです。)くださいました。
一般の患者も来院される方も多い中で30分以上も時間を割いていただき申し訳ない感じでしたが、三男にとっては今でも心を割って話せるドクターはM先生だけのようです。


 起立性調節障害は“時“が治してくれると私たち夫婦は思っています。
今は辛くても希望を持って毎日を過ごして行くことが大事です。
その時は他人様とは異なる学校生活、日常生活であっても、思春期を過ぎ身体が出来上がるまでジックリと毎日を送ることが親にとっても子どもにとっても大事なことであると経験した私たちはそう思います。


 三男には既に過去の話になったようです。
その頃の自分を慰めてくれた芝犬(チャムといいます。)を形取った白い影マークを自分の会社のホームページの真ん中に据えています。

  長くなりましたが、親子闘病記の一部を紹介させていただきました。
 現在悩んでおられる親御さん、お子さんには毎日が辛いでしょうが、私たちの話がお役に立てれば幸いです。

 実は私自身が現在難病と付き合う毎日です。
  今回はネット検索していたら、貴会のことが偶々目に付き、この何日間は体調が良いのでお役に立つことが出来ればと思い連絡した次第です。

何かありましたらご連絡ください。