何故であろうか、、原因と結果。
結果を考えるのであれば過程を考える、つまり原因を解明しなければならない。慢性的な原因に気付かずその場しのぎで過ごすようであればその結果に大差はない。。
人(私)は何故、知っているのに誤ちを犯すか?それは自分の意識世界で経験というものがなく、実感的なものが存在しないからか?体験すれば実感が湧き、その事柄に関して用心深く、慎重になる。しかし、何れにせよ快楽的報酬、あるいは自己満足感を得るという目的は変わらず、この目的無しに自己犠牲や利他的行動は自分の意識世界においても腑に落ちない部分がある。そのようなアイデンティティを確立していれば問題無いのか?それにより後世に継がれるものが有り、原則だというパラダイムを持つ事が真理なのか?生物学的に親が子を自分の身を犠牲にしても守るといった行動をとることがある。これは人間よりも知能の比較的に低い動物にもみられる。例えば恋人または、愛する異性の他人に自己犠牲的行動をとるのは、子孫繁栄という人間(私)の本能的行動や思考なのであろうか?しかし、その本能的部分は人間(私)は理性や自覚という動物には無い意識的部分でコントロール出来る。これらを踏まえて考えると本能的部分を理性を持って抑制出来るが、人間(私)の儚い命に少しでもロマンを求め尊い人生にしようという感情的部分が働き掛けるのであろうか?その感情的部分とは理性を持って抑制出来ないのか?抑制したところで自分の人生を自分の意識世界の中で振り返る時に実に虚しいであろう。では何故虚しいと思うか?それは、他人や冒険的な人生と比較しているからだと思う。人というのは根本的に一人では生きてゆけない。赤ん坊という過程経て今がある。これは必ず通る道だ。その赤ん坊の時点では他の人に力を借りる。続く…