祖父が死んでから 、四日経った。
僕の人生は、祖父がこの地に存在する世界で始まったのだから、祖父がいない世界を想像してみることもできなかったし、想像を試みたこともなかった。
いざ、その世界に放りだされてみると、これまでどれだけ祖父の存在が自分にとって大きかったかを痛感せざるを得ない。
いわば心にぽっかり穴が空いている状態。
80代となり祖父の死が遠くないはずなのに、やがてそのような時が必ず訪れるという当たり前の事実を直視せず、祖父は自分が生きている間は死なないで共に過ごし、陰ながら支えてくれるのだろうと、そんな自分勝手な幻想を何の疑いもなく抱いていた。
僕は、いつもみんなの会話の中心にいて、誰よりも大きな声で自分の意見を言う、溌剌としたそんな祖父の姿しか知らなかった。
だから、ショックだった。
新居でベッドに横たわった青白く、硬直した祖父を目の前にしたときは。
その新居も1か月もいることができずに、無念だったなーっていう思いも少しあって、それも悲しみを深めさせた小さな一因でもあるのだが、
それよりも、とても申し訳なさを感じた。
生前、もっと愛を伝えられたのではないかって。感謝の思いを伝えらたのではないかって。大学生になってからは忙しいことを理由にして全然会うことができていなかったから。
祖父の微動だにしない冷えた体を見つめると、「祖父が死んだ」という情報が、現実世界とリンクし、たちまち自分に祖父を失った実感が与わった。
ああ以前のような世界ではなくなったのだなと。
祖父が溌剌と生きていた世界から、硬直し活動を停止させた世界でこれからは生きていかなければならないのだなと。
祖父は人一倍自己主張が強い人物だった。妥協や遠慮というものを知らなかった。
とにかく存在感が強かった。良くも悪くも。そんな人物が、今や微動だにせず、口をつぐみ、ぴくりとも動かさないのだから、その様相の著しく大きなギャップが、悲しみと切なさを生んだ。
きっと、あの世では、自分が死んだことを受け入れていないんだろうなーって。
自分は生きているって言い張って、周りの人を困惑させてるんじゃないかって、そんな想像もした。
小学生の頃はよく祖父母の家に遊びに行ったものだった。取り立てて用がなくても行っていた。
あるいは家の鍵がなくて入れないときとか。行って嫌がられることは一度もなかったから、それどころかお茶とお菓子を準備してくれた。
弟はポテトチップスとかの揚げてる系のお菓子が好きで、"僕"は和菓子とか甘いお菓子が好きなんだと、孫が好むものを準備してくれていた。
涙が流れるのは、こういった日常生活の中の個別具体的なエピソードや交わした会話を思い出す時なのだ。
もうあのようなやりとりができないという事実が心をきつく締め付ける。
将来過去を振り返って、その時に何か後悔しない生き方はしたくないと強く思った。
だから今現在、この一瞬どう動くかが大切なのだ。
特に、「どんな言葉を発しているのか」だ。
人にどんな言葉をかけてあげるか。
その内容によって、その人の世界をぱっと明るくしてあげることも、闇に突きはなしてしまうこともできるのだから。
一人でも多くの人が、「本当に喜びに満ちたよい人生だった」と胸を張って言えるよう、僕ができることをしたい。祖父に対してできた自信がないから。
心は知っているのだ。理想を。
頭がどれだけ現実の自分の行いを肯定しようとごまかそうとしたとしても。
それで、祖父に対して申し訳なさを感じたのではないか。
祖父が生きていたことの意義や価値を、僕が考えようとするのはおこがましい。が、少なくとも子孫の立場である自分が、全人類に対して、少しでも大きな善の影響を与えられるなら、世界からみた祖父の存在の価値を高めることになるだろう。
祖父が死んで、価値まで固定化するわけではない。
子孫の歩み次第で、それは大きく高めることも、低めることもできるのだ。まだ恩返しは間に合うはずだ。