事象の受け止めで人の価値観が決まることもある。


価値観が決まるということは、事象の受け止め段階こそ留意しなきゃいけないと50歳のおっさんでも思っています。

価値観が変動するということは物事への認識についての正誤も、人と人がわかりあえる範囲や人への快/不快の基準も変動し得ると思うからです。







例えば、です。

男性の高齢化による様々な子供へのリスクは知られていますが、よく言われるのが


"女性の高齢化による様々な子供へのリスクは叩かれるけど、男性のそれは少ないよね"


というもの。

これは正しいとか間違えてるとかでなく、勘違いです。

少なくとも私は知ってるし、しょっちゅう言われていることだと感じます。

自分の性別のことだから女性は女性のことを、男性は男性のことを気にしてるから情報が偏ってると感じるのかも知れません。

そしてよく閲覧する媒体がそもそも男女で違うということもあるはずです。例えばamebloでは書き手、読み手のほとんどが女性という風に。

青年誌では男性に都合の良いように、女性誌では女性に都合の良いように書かれているもの、という風にですw




「受け止め」は「価値観」を作るもの、についてもう一つ。


例えばameblo婚活ネタブログは不快/快の種別はあれど婚活ブロガーのほとんどは顕著に女性が多く、勘違いブログの総数もそれに比例して男性のそれと比較したら7〜8倍は女性ブログのほうが多い。

ただ母数が全然違うので母数を鑑みて不快なブログという割合で比較するので「女性のほうが勘違いして他罰的なブログが多い」と誤認識する人はいない。…よね?流石に?


しかし、母数を鑑みず不快なブログという割合で比較すると「他罰的で慇懃無礼、厚顔無恥なブログは女性のほうが圧倒的に多い」となってしまいます。


これが「受け止め」の大切さ、価値観の分岐点となっている訳です。



これと同じ。

人々の意見が割れる時、ほとんどの場合はこの個々による受け止めかたの精度の差が認識の偏りになってきているのを見てきました。偏ってること自体は悪いことではないと思います。対話、議論ができなていないことがほとんどで、それが問題だと思います。



そして、例えのameblo婚活ジャンルにおける不快な勘違いで他罰的で慇懃無礼、厚顔無恥な女性ブログの体様は

"こんなことがあって悲しい許せない"

"男性はこうすべき"

"この世界での男女とはこうなの"

という全くの感情論を錦の御旗の如く掲げ、男性にとって全く不快で勝手な内容が書かれている。


目につくという単位でいえば圧倒的に女性から男性への他罰的で不快なブログが大多数、という現実があります(もちろん男性ブログにもそういうのあるのは知ってますよ、数を述べてます)。


そのamebloという中で「反訴」という形でもって少数派の男性側から声をあげてるブログ、言ってることの筋が通っているなら私は何ら偽りの根拠を持ってして否定するものではありません(もちろん筋もない男性ブログがあることは知ってます)。

母数を鑑みず「受け止め」をしているのではなく、母数を鑑みたうえで是非の是というプラカードを掲げることもあります。



これは母数を鑑みず不快なブログという割合で比較すると「他罰的で慇懃無礼、厚顔無恥なブログは女性のほうが圧倒的に多い」となってしまうことと対を成させて例をあげてみました。

男女間のすれ違い、認識相違はこれらによって初めて対極となる認識の擦り合わせ、


"衆による答え合わせ"


の発端になるのではないでしょうか。



「受け止め」の精度は論理的な対話、議論においてとても重要なファクターと社会では認識されています。

如何なる場所であっても忘れないように気をつけようと思います。











言いたいことを最後に添えます。

















もし何か不快な思いを何処かで僕がさせてたら、ごめんニャ!

悪気はないニャ!

許してニャ!