嘉南平原を「緑の大地」に!


石川県金沢市に生まれた八田與一は、「東京帝国大学工科土木工学科」を卒業し、台湾総督府の土木課で働くために台湾に渡ってきました。
1910年、與一24歳の時です。当時台湾は日本の統治下で(1894~95年の日清戦争後、下関条約によって台湾は日本の領土となっていた)またこの年には日本は韓国も併合してしまいます。
與一は台湾に来て、高雄の街をどう発展させるかとか台南に水道を作る工事とかの計画に当たります。

與一の考える計画は、例えば高雄の地は港より低い土地だったので街全部に土を盛って高くすればいいというスケールの大きいもので、與一の上司もあきれ果てるほど。
いつしか「八田の大風呂敷」というあだ名がつくほどでした。
この頃、日本国内では米が足りなくなっており、台湾でたくさん米を作って日本に運ぼうという考えがありました。
しかし、台湾には土地はあるのですが灌漑設備が不十分でした。
雨が降っても急流となって一気に海へ流れてしまうか、多量なら洪水を起こしてしまうのです。
水をうまくためて、その水をたくさんの水田に行き渡らせることができさえすれば米の増産は十分に可能だったのです。
與一はこんな情勢の中で、台北近くの桃園地域で川の上流から20キロメートル以上水を引き、ため池を作り、水路を張りめぐらして水田に水を送る計画を立てました。
たいへんなお金と長い年月をかけてこの工事は完成します。その結果、2万2千ヘクタールのすばらしい水田ができました。
「八田の大風呂敷」はあだ名ではなく本物になったのです。
実は、與一はこの桃園の工事の見通しが立った頃から、新たな別の大工事の計画を練っていました。
それが、この銅像につながる「嘉南大?」(かなんたいしゅう)の大工事だったのです。


嘉南平原(台湾中部の嘉義から台南にかけての台湾で一番広い平原)は、当時「不毛の大地」と呼ばれていました。
雨が降り続くとすぐに洪水、一気に海へ流れ耕作には使えない、秋と冬には雨は降らない海岸近くでは海水の逆流による塩害。

嘉南平原の農民たちは雨季に米を作り、ふだんは水がなくても作れるさとうきびやピーナッツを作って細々と生活をしていたのです。
嘉南平原の貧しい農民の暮らしを見て、何とかできないものかと考えた與一は、この広い平原にどうすれば耕作に必要な水を行き渡らせることができるかを調査しました。 
そして、台南縣の「烏山頭」(うざんとう)というところに水庫(ダム)を作って嘉南平原に水路を張りめぐらせ、「不毛の大地」を「緑の大地」に変える計画書を作りました。

桃園の3.4倍、7万5千ヘクタールの大地に水を送るという壮大な計画書でした。
この計画書を受け取った台湾総督府は、その工事の規模の大きさに驚くとともに疑問の声をあげました。
こんな大工事がはたして可能なのかと。

しかし、桃園の工事を成功させた與一の力を信頼していた上司が全面的に協力をしてくれて、この計画書は総督府の認めるところとなったのです。
このころ日本では戦争の準備のために台湾にお金を回すゆとりがなく、與一の計画した工事はなかなか始められませんでした。

與一はこの時間も無駄にはしていません。
日本から招いた技師と一緒にさらに調査を続け、より細かな計画書作りに当たっていました。
工事が始められるのを今か今かと待っていたのは與一だけではありませんでした。
嘉南平原の農民たちが與一の計画を知り、「早く工事を始めてほしい。お金がないのなら、お金も出します。工事でも働きます」という嘆願書を総督府にどんどん届けたのです。

さらに日本で起こった「米騒動」が、早く台湾で米を増産しなければという危機感を大きくさせました。

そして、総督府は與一の新しい計画書を待って工事を開始するとの決定を下しました。

全部コピペるとキリがないので残りはHP見てください、とてもいい話です

http://www.pure.co.jp/~kusu/takao/35.htm



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