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先祖探しの旅 ④ 北村家の先祖

私が幼いころ両親が離婚し苗字を北村から近藤へ移した。

なので私は自分のことを北村です。と名乗ったことは一度もない。

正直言って北村という名前に親近感があるわけでもないが、私の父親が北村であることは間違いない。

 

父親というものがどういう存在であるかということも知らない為、自分がいざ父親になってみても手探り状態が続いている。

さらに父親の先祖ともなれば知らないことだらけである。

まず、父方の祖父母の名前すら知らない為に、今回戸籍をとったことによって発見が目白押しであった。

 

父親は7人兄弟の三男であった。

母親が一人娘であるのに対し、父親の兄弟の多さに驚く。

さらに長女と次女が双子だということも分かった。

なんと、双子の血筋がこんなに近くにいたのかと驚く。

これは私の娘が子供を産むとき双子であってもおかしくはないぞと、娘に伝えておこうと思う。

あれ?よく見るとこの長女と次女の誕生日が私の娘と一緒だ!こりゃあ益々可能性があるな。と根拠のないことを頭によぎらせた。

 

父親は岩内郡岩内町で生まれた。

祖父の名は大正生まれの久雄である。

さらにその前、曾祖父は元治元年(1864)生まれの虎太郎であった。既に江戸時代後期に突入している。

この虎太郎も岩内郡岩内町で生まれた。

なるほど江戸後期まではずっと岩内町にいたんだなぁと、思っていたら少し違っていた。

地図を調べてみると、岩内郡は現在岩内町と共和町の2つに分かれており、岩内町であればそのままでいいのだが、北村虎太郎の父親、北村武知は岩内郡前田村に本拠地があるため今の共和町となっていた。

 

あれあれ?ちょっと待ってよ。

私の浅はかな知識で行けば確か明治維新が起きてから北海道の開拓者ブームが来て、移住する人が増えたと思ったぞ。

松浦武四郎が北海道と名付けてから150年(明治2年)と言われているが、ということは私の曾祖父「虎太郎」は北海道生まれというよりも蝦夷生まれである。

 

なるほどブームを先取りしたんだな。と勝手な想像を膨らませるが、さらにその先の高祖父「武知」もまた岩内郡生まれであることが分かった。

 

「北村武知」天保11年(1840)生まれである。

今から180年以上前の蝦夷地に生まれているという事は、これは郷土史などの何らかの形で記録に残っているのではないかと思う。しかし静岡県からではそれを手にすることは難しい。

 

私の勝手な想像では「武知」の名はもしかすると松浦武四郎からとったのではないかと思った。

蝦夷地を探検してアイヌと交流を交わし、辿り着いた岩内郡前田村あたりで武知の親と出会う。もちろん出会っていてもおかしくはない。その頃の和人の数は相当少ないはずなのだ。もしかすると「武四郎日誌」に登場しているのかもしれないなと思った。

 

さらにその先もある。今回の調査でその親の名前まで分かったのだ。

五世の祖父は「北村八太夫」である。

 

北村八太夫の生まれた年は今のところ分からないが、武知が長男ということも踏まえて30年前と考えれば、文化7年(1810)あたりだろう。

ついに200年以上前の先祖を見つけた。

 

200年前に岩内郡前田村で北村家はどういった生活をしていたのか…

さらに郷土史が気になるところである。

これもまた、コロナが落ち着きゆっくりと北海道へ行く機会があれば道立図書館、もしくは共和町の図書館に足を運んでみたいものだ。

 

いやはや面白い。

全く知らなかった父方の家系図にここまで興奮するとは思いもよらない。

やはり、血がつながっているためによる潜在意識の部分であろうと思うが、私自身がこういった作業が好きであると発覚したため、もしかすると誰の家系図でも楽しいのではないかと思った。

 

一応、家系図作成の会社の募集を調べてみたが、行政書士だのパソコン操作必須だのと難しいことばかり書いてあったので、そっと閉じた。そんな難しいこと言わないで「情熱」とか「ロマン」などと書いてあれば、おぉ!と思ったのに簡単ではないらしい。

 

しかし、まだまだ「近藤家」「北村家」共に先祖探しは続けようと思う。

焦らずに何年かかっても良いと思っているので気が楽だ。

 

ということで先祖探しの旅シリーズは一旦終わりである。

また進展があれば何かしらの形でブログに書きたくなるだろう。

 

近藤拓也

 

 

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