料理の記憶 21 「焼鳥編」 一の店
焼鳥屋の一日は忙しい。
お昼1時から仕事が始まり帰ってくるのは夜中の2時になる。
実質半日以上働いていることになるのだがタイムカード上は実労働8時間になっている。
この頃の飲食店業界では当たり前の話だったし労働基準法もへったくれもなかった。
私もそれを疑ったりはしなかった。
ただ、焼鳥屋といっても個人店とは違うため、本来ならば「仕込み」「串打ち」といった最も時間のかかる作業は製造工場で補っている。よって飲食店といえども鳥を捌く、肉を切るなどの包丁を使った技術は必要ではなかった。
仕込みの中で唯一包丁を使うのは冷奴に使う絹豆腐を三等分に切り分けることだけであった。
朝の仕込みの流れはこうである。
工場から送られてきた食材を専用のバットに振り分ける。
例えば私のお店では焼き場がAとBで2か所あるため簡単に言えば100本を50本づつ分けることになる。
鶏肉、豚肉、牛肉、つくね、野菜など焼き鳥の種類が豊富にある事や、前日のネタ(ちょう)を先に出せるように並べたり、冷蔵庫に入りきらない焼き鳥を店舗奥のストックヤードに運んだりするためにこれだけで時間がかかる。
また、スープを寸胴に移して沸かす。サービス用の大根おろしを器に盛るなど、まずは工場から送られてきた食材たちを素早く所定の配置に並べるというのが基本であった。
先輩たちは送られてきた食材の中にひと手間加える作業がある為、それに時間を要する。
平たい串に鶏ひき肉がくっついている状態の「つくね」を形よく整える作業がある。それを「つくねを練る」という。
私がいたお店では全種類合わせて約300本のつくねが毎日送られてくるため、例え二人がかりでもつくねを練る時間は相当かかっていた。これはある種の職人技が必要で、素人がやってもうまくいかない場合が多い。
この練りをしっかりしてこそ美味しいつくねが出来上がるのだと言っていた。
一方私はというと、焼き鳥を焼く「炉」を準備する。
まずは鉄で出来たロストルという炭の火おこし専用の入れ物に炭を入れて、それをコンロ台の上に乗せて火をつける。
しばらくすると炭が赤くなり始める。それを焼き場に持っていき炉の中へ入れる。
コウコウと火のついた炭を入れる前に炉の中も準備をしておく。
まずは新しい炭を炉の中に敷き詰め、そこへ火のついた炭を乗せて、さらに新しい炭を上に乗せる。
これもただ単に乗せるわけではない。
全体的に火が付くように炭を並べるのだ。これを「炭を組む」という。
この組む作業が適当になってしまうと全体的に火がつかなくなり営業に支障をきたす。
風が通り火が付きやすいように隙間を開けて組まなくてはならない。これも言わば職人技である。
経験を重ねれば、風の流れがわかるようになり、営業開始時間に合わせて丁度良い加減の炭を作れるようになるという。
しかしこれは初日の私にとって大変な熱さである。
鉄が赤くなるほどの高温であるため、作業には安全性が必要不可欠になるが、新人の大抵はその「熱い」というものがどれほど熱いのかよくわからないでいる。
私もその一人であった。
初日に先輩から「熱いから気をつけろよ」と言われたにもかかわらず、ふとしたミスでロストルを右腕につけてしまった。
それは一瞬の出来事で、熱い!という間もなかった。
ロストルはみるみる私の腕の肉を焼き、重みで骨にまで到達した。
気が付いた時にはすでに遅く、引きはがすと腕の骨がわずかに見えていた。
うわぁぁ。と、もだえる私を見て先輩は「だから言っただろう。熱いって。」とあきれていた。
「どれ、見せてみろ。」と私の腕をとり、ばばっと火傷薬を塗った。
ぐわぉぉぉ。と痛がる私を見て先輩は笑っていた。
やけどの加減はあるものの、火を扱う仕事でこういったことに慣れている様子だった。
初日からやってしまった。くうう。
ちなみにこの時のやけどは20年経った今でも残っている。
3時半から4時までには仕込みが終わり、営業開始までの休憩時間となる。
営業が始まってしまえば、ノンストップで怒涛の忙しさが待っているため社員にとっては大切な休憩タイムである。
先輩たちはテレビを見ながら昼食を取り始めようとすると、店内の奥からあの声が聞こえた。
「アーアー!」
こ、これは!?
面接のとき最後に聞いたあの声だ。
すると休憩中の先輩の1人がスッと立上りその声の主のところへ向かっていった。
「何ですか?今のは?あの声は?」
私はその奇妙な光景の真相を誰かに聞かずにはいられなかった。
「覚えておけよ。いいか、あの声は店長が缶コーヒーを欲している合図だ。」
「ええっ?缶コーヒー?」
「お前見たことあんだろ。テレビCMのあーあーってやつ。ほら、UCCの缶コーヒー。誰だっけ?」
「ああそうだ。クリスタルキングだ。大都会。」
「あーあー!果てしない~。ってやつCMで流れてるだろう。あれさ、店長が気に入っちゃって毎日言うようになったんだよ。それで、それがコーヒーを飲みたいってことだから覚えておいて!っていうんだよ、だからあれを言ったらどんな時でもコーヒーを買って持って行けよ。これからはお前ら新人の仕事だからな。」
なんじゃそりゃ。
とは言えなかった。
それからというものほぼ毎日、いつのタイミングで来るかわからない店長の甲高い「あーあー!」という声に私は耳をふさぎたくなった。