先祖探しの旅 ③ 近藤家の先祖 | たっくのブログ

先祖探しの旅 ③ 近藤家の先祖

「先祖を調べる」と両親から聞かされていないことや、その時代の背景などが見えてくる。

現在役所に残っている戸籍の情報は明治19年式が最古になっており、その戸籍には江戸後期の先祖が記載されている。

 

自分の先祖が江戸時代、どこで何をしていたのかというストーリーを考えるだけでも相当面白いのだが、私はそれ以前にその当時の人が手書きで書いた戸籍を読み取るという作業が好きだと感じた。

 

字が汚い人もいれば、達筆で読みやすい人もいて、漢数字も昔の字だったり、わからない言葉を調べたりしている作業があり、ひとつわかるごとに「なるほど~」と納得して、次の人、次の人と会ったこともない先祖たちの出生や結婚、または結婚相手などを読み取る。これが面白いのだ。

この面白さは人にはあまり伝わらないようなので、私だけの楽しみとして持っていることにしよう。

 

そうこうしているうちに、近藤家の先祖が見えてきた。

祖父は余市町に生まれ、その後帯広市、札幌市など住所を転々としている。

私の母は祖父が帯広市にいたころに生まれているため、母親の出生地は帯広市だということが分かった。

まぁここまでは、今も健在している母親に聞けばわかるような話だが、問題はその前になる。

 

祖父の父親、つまり私の曾祖父はわたしが生まれる前に亡くなっているため、仏間の写真でしか知らないが曾祖父も余市町で生まれていた。この時点で明治23年生まれである。

さらにその父、私の高祖父は嘉永6年(1853)生まれでありついに江戸時代に突入した。

名前も「忠五郎」と、何だか昔の人の名前になってきた。

 

ではその忠五郎はどこで生まれたのか?

嘉永6年(1853)に「新潟県西蒲原郡鴻巣村」と記載されている。

なんと、近藤家の先祖は新潟県に住んでいた。

さらに戸籍には、父「新六」届けありの文字。つまり忠五郎の父は新六である。

 

私は興奮を落ち着かせるように頭の中を整理することにした。

まず、新潟県西蒲原郡鴻巣村を調べてみると、現在は存在しない村であり今の「新潟県燕市」辺りになる。

では、新六はどこで生まれたかを調べようとしたが、戸籍は既に明治19年式であり、それ以前の戸籍は役所では調べることができなかった。

 

何か情報はないかと、スマホで地図を調べていると燕市の住所に新六という地名があることが分かった。

果たしてこの地名が私の先祖と関係があるかどうか現時点ではわからないが、ふっと地図上によぎったのが「椎茸栽培 新六」という文字。

 

あれ?ここにも新六?とさらに調べるとその椎茸農園を経営しているのが近藤さんであったのだ。

なんと!これは!?きっと何か関係がある気がする。と思ったが、急に電話してあなた私の親戚ですか?とか、今のご時世に怪しい物ではありませんが...などと会ったこともない人に家系図の事を聞くのは気が引けるので、これ以上先を調べるにはどうやら現地にいく必要がありそうだと感じた。

 

 

しかし今のコロナ過で浜松から新潟県に行くことは容易ではない。

もう少し落ち着いてからゆっくり現地へと行くことが妥当であると思った。

 

一応は近藤家の先祖探しは一旦止まっているが、私は何か情報はないかと図書館で古い文献や、名字大図鑑なるものを見ながら調べたりしている。これも面白い。

 

姓氏家系大辞典は見応えがある、先祖が武士であれば藩の名簿などもあるが、今のところ分からない。一方では新潟県に行けば郷土史が図書館にあるし現地の法務局に行けば旧土地台帳などもあるので、いつかは新潟県に行きたいと思っている。

 

 

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さて、次は北村家である。