さて旅の気分になったらどこかへ出かけるしかない。
家に自分とワンコしかいないある日の午後、クルマがあるので思い立って川越へ行ってみることにした。

クルマで行くなら機材をあまり気にする必要もない。
後部座席に荷物を投げ込んだら出発だ。
でも結局持って行ったのは、シルバーのライカM2にズミクロン50㎜(ちょうどこのセットが付いていたので)、それにこのところ出番のなかった35mmノクトンのf1.2にルサール20㎜f5.6。それにM3のボディ。M2のシルバーにはカラーフィルムが入っていて、会社帰りに数枚撮ったままだ。それにフィルムを4本。カラー2本にAcrosを2本。これだけあれば今日は十分だろう。

そして向かったのは、川越、喜多院のそばの明星駐車場。ただ、よく下調べしないで出かけたので明星駐車場は16:30でCloseになっており、私が到着したときにはちょうど閉まったところだった。仕方がないので近所のコインパーキングに停めて歩いて喜多院へ行く。

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久しぶりのカラー写真。ライカM2のシルバーボディを使うのも久しぶりなら、修理なった50㎜ズミクロンをメインで使うのも久しぶり。そしてやってきたのは喜多院。

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こちらは多宝塔。ここで喜多院の歴史を復習しよう。

天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
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こちらが喜多院メインの建造物である慈恵堂。

その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
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夕刻の喜多院にはもはや観光客はほとんどおらず、地元の方が犬を散歩させているのみ、であった。そういえば、この写真の下の地面で私はあろうことか、M3のほうを地面に落としてしまった。理由は次の記事で述べることとする(カメラは幸い、大した傷もつかず、無事であったが)

正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。

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誰もいな神社、というのも悪くないものだ。日が長くなったおかげでまだ十分に明るい。

寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。

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ということで喜多院の観光ガイドはこれでおしまい。次回は喜多院での別撮影(ショット)を紹介する。