「ま、待つのじゃ濃!まだ話は終わっておらぬぞ!」
遠ざかってゆく妻の背に呼び掛けた。
すると、それに反応したように濃姫の足が止まり、サッと踵(きびす)を返した。
「それと、お願いついでに申し上げておきまする」
「 ? 」
「あのおなごのことを“類殿”と呼んだり“吉乃殿”と呼んだり、ややこしゅうてなりませぬ。
せめて私の前では、類殿の名で統一して下さいますよう、お願い申しまする」
そう静かに申し述べると、姫は再び前に向き直って、居丈高に去って行った。
信長は呆気に取られてしまい、進み行く妻の背を半ば茫然と見送っていた。
いったい濃姫は何を考えているのか…。
さすがの信長にも、
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この時ばかりは妻の心の内がまるで分からなかった。
唯一分かっていたのは、完璧に終わりかけていた一日が、姫のせいで台無しになったという事実だけであった。
その夜。
「何故にお断り申さなかったのだ?」
「…何のことです?」
「お濃の方様からのお招きの話じゃ。嫌ならば拒めたものを、何故に承諾など致したのだ?」
昼間の妹の決断を訝しく思った家長は、その真意を類から訊き出そうとしていた。
類は初め言い渋るような素振りを見せていたが、ややあってから、意を決したように口を開くと
「…叱られに……参ろうかと思いまして」
言葉少なくそう答えた。
「何じゃと?」
「ですから、お方様のお叱りを受ける為に、城へ参ろうと、そう思い及んだのです」
「…言っている意味がよう分からぬ。どういうことじゃ?」
家長が眉根を寄せて訊くと、類は小さな吐息を漏らしてから、改めて己の本心を語り始めた。
「此度 参られたご老女殿のお話では、殿の側室となった私からの挨拶参りを、お方様が求めていらっしゃるとの事でしたが、
無論 それは本当の目的ではございますまい。きっと、私を御前に引き出して、この度の私の無礼に対する叱責をなさりたいのでしょう」
「無礼とは何じゃ? そなたはただ奇妙様を…、殿の跡継ぎをお産み申しただけではないか!?」
感謝こそされ、責めを受ける覚えはないと、家長は言った。
「その事と、女心はまた別にございます。 お方様の目から見れば私は、殿を寝取った賤(いや)しき寡婦女。
お方様に先んじて吾子(わこ)を儲けた挙げ句、側室として城に上がることもせず、実家に引き籠り続けている卑怯者なのですから」
「何も、そこまで己を卑下せずとも…」
「いいえ兄上、本当にそうなのです」
自分はきっと濃姫に恨まれているはずだ。
仮に恨んではいなくとも、以前の正室二人云々の話や、養子話などで、かなりの不快感を与えているはずである。
「だからこそ、一度 お方様の元に出向いて、ご挨拶と、ご不興を与えてしまった事への詫び入れをしなければと、左様に思い及んだのです」
「……しかし、そなたが詫びたところで、お方様が勘気を解いて下されるかどうか。お怒りを受けるのは目に見えておる」
「ですから、それで良いのです。申しましたでしょう、私はお方様に叱られに参るのだと。
お怒りや鬱憤の数々を、直に私に浴びせていただく事によって、少しでもお方様のお心の憂いを取り払って差し上げたいのです」
「…類」
「万が一にも、私に対する恨み辛みが、奇妙様にまで降りかかったりしてはお可哀想です──。
私は、殿の寵を受けた者として、また奇妙様の母として、今の自分に出来る、最善を尽したいと存じます」
類は心組みも固く申し述べた。
情に訴えかけるような、妹の真っ直ぐな瞳を見て、家長も二の句が継げなかった。