を静かに見下ろしていた。
「我が母・の事を、そなたは知っておるか?」
前触れもなく義龍が口火を切った。
帰蝶はハッとなって月から目を離し、慌てて頷いた。
「…はい。元は、父上様によってこの美濃を追われた前守護・殿のご側室であられたとか」
「その通りだ。当時土岐氏に仕えていた父上が、襖絵に描かれた虎の目を、植髮成功率
槍で射抜けるか否かの賭けをし、それに勝った褒美に我が母を譲り受けたのだ」
「兄上のように背がお高く、見目麗しいお方であったと聞き及びまする」
「ではそなた、この話も知っておるか?」
「どんなお話です?」
「父上が土岐氏から我が母を譲り受けた時、既に母が身重であったという話じゃ。
この話が事実ならば儂は、父・道三の子ではなく、土岐氏の子という事になる」
「兄上…そのお話は…」
「そなたとも異母兄妹ではなく、赤の他人。いや、まことの父を美濃から追いやったの娘という事になろう」
「兄上っ」
帰蝶は半ばめ付けるように兄を見据えた。
義龍が土岐氏の子かもしれない──。
これは、帰蝶のみならず、小見の方や弟たちも知る内輪では有名な話だった。
しかし、この話をまともに受け取る者は少なかった。
単に、義龍が早産で生まれた経緯から流布された、作り話だと思っていたからだ。
帰蝶自身も、義龍が実の兄であると信じて疑わなかった。
「兄上はまことに、ご自分が父上様の御子ではないとお思いなのですか?」
「そうよのう……。もしもそうであれば、どんなに楽か知れぬ」
「では、思うてはいないのですね?」
「ああ。今のところはな」
含みのこもった返答ではあったが、帰蝶は小さな感を得ていた。
「そうでなければ困りまする。兄上が兄上でないなど、帰蝶には考えられぬ事です故」
義龍はと微笑む妹をすると、夢想にるような顔付きで、視線を宙に遊ばせた。
「先程、そなたから謀反の噂を聞かされた時、思わず冷や汗が出た」
「まぁ、何故です?」
と帰蝶は訊いてから
「よもや謀反の噂が、まことの話じゃなどと申されますまいな?」
眉根を寄せながら、重ねて問うた。
「いや、そうではない。…そうではないが、何やら、それに賛同する自分がおってのう」
「何と─」
「いっそ父上を討ち取り、この美濃を我が物にした方が、気も楽になるのではないかと」
「お止め下さいませ。そのような不吉な事を申すのは」
帰蝶が真面目顔で窘めると、やおら義龍は、道三によく似た豪快な笑い声を上げた。
「すまぬ。輿入れ前のそなたに言う事ではなかったな」
「左様でございます。安心して尾張へ嫁げぬではありませぬか」
「案ずるな。ただのじゃ」
義龍の面差しに浮かんだ少年のような微笑みに、帰蝶は少し救われた思いがしていた。
こんなに優しい兄が内紛など起こそうはずがない。
仲が悪くとも、いずれは父上と共にこの美濃を護って下されよう。
帰蝶は改めて愁眉を開くと、たる面持ちで再び夜空の月を眺めた。
背後にある渡り廊下の柱の陰に、光秀が潜んでいた事にはまるで気付かずに──。
大広間での宴がお開きになった後、道三は堀田道空をって真っ直ぐ居室に立ち戻ると、
居間の上座にどさっと腰を据えて、まずは酔い醒ましの茶で一服し、喉を潤した。
空になった湯飲みを、道三は目の前の床の上にコトンと音を立てて置く。
そこから少し先、居間の下座にあたる場所には、平伏する光秀の姿があった。