もう内観する時期は落ち着いたのだと思っていたけれど、ここしばらくの間、再びその流れが来て、とても大切な気づきがたくさんあった。


その色々な気づきの中でも、今日書きたいのは、


自覚できる層にある全ての防衛観念は、根源的な深層観念からきている、ということ。


例えば、私には


私は我慢しなければいけない

私はちゃんとしなければいけない

私は分かってもらえない

私は幸せになってはいけない

などといった観念がある事を自覚していた。


私の場合、

苦労続きの人生を歩んできた母の重荷になりたくない、母を安心させてあげたい、という想いから自分の本音を言わないようにしてきたり、母よりも幸せになってはいけないと無意識的に決めてしまったようなのだ。


そこにあったのは、愛や優しさだったけれど、もっと踏み込んでみると、それらは全て、愛されるためだった。


それは家庭環境や親との関わりの中で、そう信じてしまったかのように思える。


体験があって、それが原因で観念が形成されたのだ、と。

これは心理学的な視点ではとても自然で有効だ。


けれど本当は、自覚しているかどうかは別として、人は誰しも

「私は無条件で愛される存在だ」

ということを信じられないのだ。


なぜ信じられないのか?


それは…

私は源から分離してしまった

という人間の根源的な錯覚や妄想があり、そこからくる深層観念があるから。


それは個人のものではなく、集合的・普遍的な人間意識の層にある観念で、人類意識そのものが長い時間をかけて抱えてきた集合的な幻想だ。


その深層観念とは…

「私には問題(罪)がある」

「私は不完全な存在だ」

というもの。


私は源から分離したという問題(罪)があって、完全さから分離してしまった不完全な存在。

だから私は愛されない、と無意識的に信じ込んでいるのだ。


深い層から見ると、体験は原因ではなく、むしろ “結果” や“表れ” なのだ。


こういった根源的な深層観念が、“種”のように奥に潜んでいて、そこに“体験”という水が注がれたときに、それが自覚できる形で発芽してくるのだということに気がついた。



分離の錯覚には、不完全さの感覚が伴う 。

「私」と「他」という分離が認識されたとき、そこには自動的に「違い」や「不足感」が生じる。

その分離自体が、「私は何かが足りない存在」という感覚の種になる。


だから自我はいつも何かを求め、何かをしなければという動きをしている。

その問題(罪)や不足感からの逃避で、外側に刺激を求める。

夢や目標を持つことですら、この動きなのだ。(それが悪いことではないけど)


分離という錯覚がもたらす痛みはあまりにも大きい…。


源から分離してしまったという感覚。

そんな、全く認識できないようなものが、果たして自分に影響しているのだろうか…と、今までは思っていた。


けれど少し前に、瞑想の中で

「私の存在を許してほしい」

という深い思いが涙と共に湧いてきた…ということがあった。


表層意識ではそんなこと思ったこともなかったので、これはとても意外だった。

やはり私の根底にも分離からくる痛みが確かにあったのだなぁという気づきだった。


このような体感や気づきは、私の内側のスペースや沈黙の領域が広がり、深層観念や分離の痛みを受け止める準備ができたから、浮上してきたのだなと思った。


気づきはちゃんと段階的に訪れるようになっているんだな、と。


ここしばらくの間に起きた気づきについては、また書いてみたいと思っている。