言葉、ことば、kotoba | アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

2005年から2009年までの4年間、常夏のマレーシアで暮らしていました。2年過ぎた今でも、日本食は「ハレ」の料理でちょっぴりよそよそしく、アジア飯のほうが「ケ=日常」のご飯で、ホッとします。私にとっての食とは、味わいながら、みんなとつながることです。


幼いころから、言葉が気になっていた。
「言葉にすると、なんか違うナー」
といつも思っていた。
思いを丸ごと伝える方法が知りたかった。

今ありがたいことに
ライターという仕事をさせてもらっているけれど
わたしは、自分の文章がうまいとは決して思わないし、
センスもない。ただひとつ言えるのは、
「どんな言葉を選ぼうかな」と類語辞典をめくったり
1時間くらい悶々と考えるのが、けっこう楽しいということ。
ぴったりの言葉で表現できたときは
宝くじにでも当たったかのような、超ハッピーな気分になる。

わたしが“手話”に惹かれるのは
手話が“言語”だからだ。
それも、わたしの求めていた、心を丸ごと伝える言語。
完璧じゃないにしても、それに近い言語。

何かの本に
「手話は不完全な言葉です。好き、嫌い、という言葉はあっても
 まぁまぁ、とか、すごく、という言葉が抜けているからです」
と発言した、とんでもない人の話が紹介されていた。

細かく言えば、手話でも、「まぁまぁ」とか、「すごく」という
言葉は、もちろんある。
でも、まぁまぁ、とか、すごく、とかをつけなくても、
手話では伝えられるのだ。自分の思いを丸ごと、そのままの形で。

思いっきり心をこめて、好きという。
うなづきながら、好きという。
顔をしかめたり、表現するスピードを速くしたり、
そうやって、好きの度合いや、嫌いの種類を丸ごと伝える。
そのほうが、「まぁまぁ好きです」「すごく好きです」より
100倍伝わると思う。
わたしにとっては、間違いなく、そのほうが伝わる。

手話を学んだことで、
発される言葉以外の相手の様子に敏感になった。
言葉の裏にある思いを読み取ろう、と考えるようになった。
相手の表情、行動に滲み出る思いを感じよう、とするようになった。
そして、その感じた思いを、信じられるようになった。

わたしの理想に近い言葉が、手話だったんだね。
手話と出合えてよかったよ。本当にありがとう。