フリーが集まる新年会 | アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

2005年から2009年までの4年間、常夏のマレーシアで暮らしていました。2年過ぎた今でも、日本食は「ハレ」の料理でちょっぴりよそよそしく、アジア飯のほうが「ケ=日常」のご飯で、ホッとします。私にとっての食とは、味わいながら、みんなとつながることです。

発注先からお誘いをうけ、新年会に行ってきた。
系列の飲食店で、もと○だ万の料理人がつくったメニュー。
素材、調理、店の雰囲気などすべてにこだわりを感じ
文句なしで素晴らしかった。

そこには、わたしのような外注の人間が集まっていた。
フリーのカメラマン、ライター、デザイナー。
自分のスキルを売り、金を稼ぎ、ひとりで仕事をする人たちだ。

たいてい取材には、カメラマン+ライターというコンビで
行くので、カメラマンは、ほとんど知っていた。
でも、このような飲み会の席で会うのは、初めて。

ワイワイと盛り上がり、とても楽しかったけど、
解散してひとりになり、しみじみと思った。

わたしって、クリエーターじゃないな――。

カメラマンもライターもみな、
「わたしは、こうなんです」
「それはね、こうだと思うんです」
と自分の言葉で、はっきりと話す。
「どう思う?」と聞かれたときに、明確な答えを持っている。
もし持っていなかったとしても、
持っていないことを自分の言葉できちんと伝えることができる。

それに比べて、わたしはダメだ。
自分の言葉で言えない。
自分の考えよりも、まず「場」の雰囲気を考えてしまう。
その場にふさわしい言葉を無意識に探してしまう。
そうやって口に出たものは、だれかの借り物の言葉になってしまう。

たとえば、「意見はありますか?」と聞かれたとする。
誰も手を挙げず、答える人がいなかった場合、
わたしはたぶん手を挙げる。
場を和ませるために。
わたしの発言のあとで、みんなが言い易くなるように。
その会がうまくいくように。

でも、多くの人が「ハイ!ハイ!」と手を挙げた場合、
よっぽどのことが無い限り、わたしは手を挙げない。
わたしが出しゃばらなくても滞りなく進んでいくのなら、おまかせ。
それに、白熱した中で「わたしはこう思います!!」というほどの
強い意見は、もともと持ってない。

いうなれば、わたしは、
盛り上がりを支える「合いの手」人間なのだ。

ずいぶん昔から、こんな性格だったと思う。
この性格が、就職試験の最終面接まではいくけど
最後に不合格になる原因なのだ。

フリーになった今は、これじゃいかんな。
時と場合によっては、白熱していても
「わたしはこう思う!」と言える人間でなくては。

本音をいうと
わたしという人物には、“フリー”とか、“クリエーター”
という言葉は、ぜんぜん似合わない。

でも、こうなったのも、なにかの縁。
足りないことを勉強していく、いいチャンスなんだろうね。
人生何事も学びの場所。