今日出来事と時間の話~小説風~
今日は起きて直ぐに顔も洗わず、車のエンジンをかけ颯爽と郵便局へと向かった。
いつもの接客下手の男性職員を横目に賢そうな女性社員がカウンターに現れた。
「速達でこれ明日までに間に合いますかね?」
たいした急いだ素振りも見せずに俺は聞いた。
昨日一日かけて書いたエントリーシートはいつもどーりギリギリで人事担当の流れ作業へ滑り込んでいく。
今回は初めて修正テープを使い、後から漢字の間違いにも気づいた。
けどもう遅い。
漢字の間違いに関してはきちんと確認しておけばよかったと後悔してる。
郵便局を出てなんとなく迎えににあるTUTAYAに入った。
特に目的はなく、久しぶりにDVDを借りようとしたがカードの有効期限が切れていて余計な金がかかったことに毎年恒例のため息がでる。
家に帰り、DVDは楽しみにとっておき先日買った伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」を読み始めた。
途中でやめるつもりだったが、最後まできちんと読み、その概要をノートにまで書いた。
概要どころかストーリーを丁寧に要約したノートは3ページ近くに及び時計の針は6時をちょっと越えた位置をさす。
これほどまで時間が短く感じたことは久しぶりのような気がした。
時間は唯一誰もが平等に与えられているものだと思っていたがどうやら違うようだ。
過ごし方によって時間は止まったように遅く感じることもあれば、
あっという間に過ぎ去っていくようにも感じる。個人の行動や取り巻く環境によって時間の長さは変化するのだ。
そして質も変わってくる。時間と言う便利な絶対的ルールの中で人は生きている。
そのほうがいろいろと都合が良い。人が多ければ多いほど時間は大切になる。
逆にこの世に人が一人しかいなければ時間は必要ない。
一人というものほどつまらないものはない。
たくさん人がいたほうが面白いのだ。
そのために時間は存在する。
多くの人が繋がりを持つために時間という絶対的ルールは必要なのだ。
そのルールに従いそのなかで多くの仕事をこなしたものがエリートと呼ばれ、何もせずにボーっとしてたものは排除される。
ただ二人ともルールは破っていないし優劣をつけてボーっとしてたものを排除するのはルール違反だ。
その人の時間の長さは死によって決定する。
たいていの人はいつ死ぬのかわからず、平均寿命というラインを参考にして生きているだろう。
死はいつ何時訪れるか分からない。
自分の死を自覚し時間の長さが決まったものはその有限である時間を必死に生きようとするのではないだろうか。
癌になり余命数ヶ月を宣告された人々の生活を追ったドキュメンタリーはなぜあんなに悲しく、感動できるのだろう。
死を悟った人の時間の質はそれを知らない人よりも絶対に高価なものだ。
その時間が長く感じるか短く感じるかはその人次第だが、たいてい充実した時間というのは短く感じるものであり時間の質は絶対的ルールでの時間の長さによって判断されるものではない。
だから時間に平等な距離を設定してそのなかで人を判断することはおかしなことなのだ。
社会は常に変化しその寿命はまちまちだから時間というルールに距離やラインを設定する必要がありそのなかで時間を有効利用したものが評価される。
しかし、人生にはいつも死が存在していて自分の残された時間に気づくものは少ない。
時間の質を高めるには遠くにあるよくわからない何かを追い求めるのではなく、
自分の死を自覚して今を楽しく精一杯生きることだ。
死ぬために生きろ。
いつもの接客下手の男性職員を横目に賢そうな女性社員がカウンターに現れた。
「速達でこれ明日までに間に合いますかね?」
たいした急いだ素振りも見せずに俺は聞いた。
昨日一日かけて書いたエントリーシートはいつもどーりギリギリで人事担当の流れ作業へ滑り込んでいく。
今回は初めて修正テープを使い、後から漢字の間違いにも気づいた。
けどもう遅い。
漢字の間違いに関してはきちんと確認しておけばよかったと後悔してる。
郵便局を出てなんとなく迎えににあるTUTAYAに入った。
特に目的はなく、久しぶりにDVDを借りようとしたがカードの有効期限が切れていて余計な金がかかったことに毎年恒例のため息がでる。
家に帰り、DVDは楽しみにとっておき先日買った伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」を読み始めた。
途中でやめるつもりだったが、最後まできちんと読み、その概要をノートにまで書いた。
概要どころかストーリーを丁寧に要約したノートは3ページ近くに及び時計の針は6時をちょっと越えた位置をさす。
これほどまで時間が短く感じたことは久しぶりのような気がした。
時間は唯一誰もが平等に与えられているものだと思っていたがどうやら違うようだ。
過ごし方によって時間は止まったように遅く感じることもあれば、
あっという間に過ぎ去っていくようにも感じる。個人の行動や取り巻く環境によって時間の長さは変化するのだ。
そして質も変わってくる。時間と言う便利な絶対的ルールの中で人は生きている。
そのほうがいろいろと都合が良い。人が多ければ多いほど時間は大切になる。
逆にこの世に人が一人しかいなければ時間は必要ない。
一人というものほどつまらないものはない。
たくさん人がいたほうが面白いのだ。
そのために時間は存在する。
多くの人が繋がりを持つために時間という絶対的ルールは必要なのだ。
そのルールに従いそのなかで多くの仕事をこなしたものがエリートと呼ばれ、何もせずにボーっとしてたものは排除される。
ただ二人ともルールは破っていないし優劣をつけてボーっとしてたものを排除するのはルール違反だ。
その人の時間の長さは死によって決定する。
たいていの人はいつ死ぬのかわからず、平均寿命というラインを参考にして生きているだろう。
死はいつ何時訪れるか分からない。
自分の死を自覚し時間の長さが決まったものはその有限である時間を必死に生きようとするのではないだろうか。
癌になり余命数ヶ月を宣告された人々の生活を追ったドキュメンタリーはなぜあんなに悲しく、感動できるのだろう。
死を悟った人の時間の質はそれを知らない人よりも絶対に高価なものだ。
その時間が長く感じるか短く感じるかはその人次第だが、たいてい充実した時間というのは短く感じるものであり時間の質は絶対的ルールでの時間の長さによって判断されるものではない。
だから時間に平等な距離を設定してそのなかで人を判断することはおかしなことなのだ。
社会は常に変化しその寿命はまちまちだから時間というルールに距離やラインを設定する必要がありそのなかで時間を有効利用したものが評価される。
しかし、人生にはいつも死が存在していて自分の残された時間に気づくものは少ない。
時間の質を高めるには遠くにあるよくわからない何かを追い求めるのではなく、
自分の死を自覚して今を楽しく精一杯生きることだ。
死ぬために生きろ。