[5] また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。[6] あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
‭マタイによる福音書 6:5-6 口語訳‬


入院生活の単調さに辟易としてしまいブログ投稿にも身が入らず過ごしてしまいました。一つには、内縁の妻の出所まで1か月を切ったのに、家を留守にしている現状のもどかしさがあります。それと軽い拘禁病的な症状があるのかもしれません。

**拘禁病とは**
拘禁病(または拘禁反応)は、強制収容所や捕虜収容所、刑務所、拘置所、精神科の閉鎖病棟など、自由を抑圧される環境に置かれた人が示す人格の変化を指す精神障害です。この状況によって、神経症、鬱状態、幻覚、妄想などの症状が現れることがあります。

刑務所経験からこのような状態には慣れているなずなのに💦

ふと、思い起こしてみると前回、刑務所から出所して4年が経とうとしていることに気が付きました。まだ4年、もう4年。。。

出所間近の時期、作業後に独居房に戻り、余暇時間があれば祈ってばかりいたことを覚えています。社会と隔絶された場所からの出発です。刑務所からの出所は経験者にしか理解できない喜びがありますが、同時に不安も伴います。行く宛もなく、所持金も少なかったためです。これは多くの受刑者が直面する問題です。進藤龍也牧師もこの問題に取り組んでおられ、私も当時、進藤先生と頻繁に手紙を交わしていました。


私たち神の創造物には、神と二人きりになれる場所が必要です。そのような場所や時間がないと、一貫した個人的な祈りの生活を築くことはできません。隠れた祈りは、信仰やキリストのメッセージを他人から隠すことではありません。それは、自分自身とキリストとの個人的な関係を深め、導きと教えを与える聖霊の声を識別する(物事についての洞察や賢明な判断をする)学びです。主イエスにも、そうした隠れた場所がありました。

 

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコによる福音書 1:35

 


私たちの多くは魂を養うことをいいかげんに考えがちです。「時間があれば」聖書を読み、お祈りをしようと考えています。サタンは、結局、時間ができないことを見抜いています。

朝起きると、もう少し寝ていたいなとベッドに横たわっています。そのうちに今日一日のいろんな仕事が思いに浮かんできます。お祈りはもう少しあとにしようと考えます。お昼になると、もう仕事が山積しています。その時は、魂を養う必要など念頭から消えてしまっているかもしれません。夕方になると、もうすっかり疲れてしまってベッドに入ってしまうので結局祈ることはなくなってしまいます。

聖書を読んだり祈る時間は自然に出てくるものではありません。祈るためには時間をつくらなければならないのです。日常のスケジュールをやりくりして、そのための時間をつくらねばならないのです。朝は早く起きて、主のみ前に静まって祈るのに十分な時間をとらなければなりません。それによって、一日の仕事と、戦いと、誘惑と、悩みに十分なそなえができるためです。主のみ前に静まって一日をはじめる人は、一日をしっかりとやり抜く恵みを受けます。それによって、主の平安による安定性を維持することのできる力を与えられます。


祈りが父なる神に向かう真実な祈りであるための前提は、その人の日常生活に祈りがあることです。祈りの祭壇がちゃんと毎日の生活で大事にされていることです。密室とか、静思の時とか、デボーションとか呼ばれますが、とにかく日々の生活の中心に、まず一人神様の前に出て、神のみこころを聴き、そして、神に向かって語るときを確保することが大切です。

ですから、主イエスは「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(6:6)とおっしゃいました。

 

 

[7] また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。[8] だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
‭マタイによる福音書 6:7-8 口語訳‬


主は無意味な繰り返しによる祈りについて警告されています。単なる言葉の反復は確かに無駄です。だからこそ私たちは祈る際には心からの言葉を慎重に選び、本当に心の底から出てくる思いを語るべきです。私たちが警告されているような無益で異教徒的な反復は、非常に危険であるにもかかわらず、しばしば行われています。

父は、私たちに必要なものをご存知です。私たちは主に自分たちの不足を話す必要はありません。主は全てをご存知で、知らないことはありません。主は喜んで私たちを必要から解放してくださいました。私たちに不足しているのは、主の恵みと祝福を受け入れる適切な心の準備です。したがって、祈りの大きな目的の一つは、そのような心を私たちの中に育むこと、神に依存することを学ぶこと、そして私たちがさらに求め、祝福に満たされるまで戦いをやめないことを実感することです。


異邦人が同じ言葉を単に繰り返す行為は、例えば「〇〇〇〇」という言葉を100回、1000回、あるいは1万回唱えることで功徳があるとされる異教の祈りを指すのかもしれません。イエス様の時代には、祭司や律法学者の中にも、同じ言葉を繰り返すことで功徳が積めるとする異教の風習が浸透していたことが伺えます。

異教ではなぜ自分でも何を意味しているかわからないようなことばをただただ繰り返すということをするのでしょうか。それは異教徒は聖書のことばをもって語りかけてくださり、また私たちの語ることばに耳を傾けてくださる、生ける人格的な神を知らないからです。何かの意味不明の呪文の神秘的な力、魔力によって、何事か不思議を体験しよう、欲望をかなえようというのが異教の祈りです。

イエス様は、同じ言葉の繰り返しを含む呪文のような祈りを避けるように教えられました。これは祈りが短くあるべきだと言っているのではありません。主イエスは荒野で長時間を父なる神との交わりに費やされました。特にゲツセマネでの祈りは、2時間から3時間に及ぶ長いものでした。アブラハムもソドムのために長い間、とりなしの祈りを捧げました。人格的な交わりには、相応の時間が必要です。短い報告で終わるのではなく、愛する人とは長く一緒にいたいと思うのと同じように、神様を愛するならば、長い時間を共に過ごしたいと願うはずです。

イエス様が、ここで『同じことばを繰り返すな』とおっしゃるのは、私たちの父なる神は、生けるご人格でいらっしゃるのだから、まずは父のみことばを読んで、味わって、そうして普通にお話をするように、父なる神様にお話をすればよいとおっしゃりたいのです。


「だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである 」(6:8) ここを最初読んだときには、「なんだ、それなら、なんでお祈りなどする必要があるんだろう」と思う方が多いようです。異教の祈りは、確かに「家内安全、商売繁盛」とか「どこそこ大学に合格できますように」というふうに、何かを手に入れるためにお願いをするというものでしょう。

ほんとうの祈りとはそんなものではありません。たとえば、あなたが子どもでお父さんがいるとします。日ごろはお父さんをまったく無視して生活していながら、ただ何か欲しい物があったときだけ、「自転車を買ってくれ」「ゲーム機を買ってくれ」というだけだとしたら、こんなに失礼なことはないでしょう。お父さんは自動販売機ではないのです。

祈りにおいては? お願いをしてよいのです。ですがお願いだけではいけません。祈りとは父なる神様との人格的な対話ですから、まず心を白紙にして、その日、聖書によって神様がお話になることを読んで耳を傾けることです。それから、その神様を賛美することです。そうして自分の思いのたけを神様に全部ありのままに申し上げて、そのなかで「このようなものが必要なのでよろしくお願いします」と申し上げるのはよいことです。

父親はだいたい子どもがその時期にどんなものが必要であるかは知っているでしょう。知っていますが、子どもから求められて与えることに愛の交わりの喜びを感じるものです。父なる神は人間の父親以上に子どもである私たちの必要をよくご存知です。ですが私たちが祈って求めることを願っていらっしゃいます。祈りのうちには愛の交わりがあるからです。

 

[9] だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 [10] 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 [11] わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 [12] わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 [13] わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。

 

‭マタイによる福音書 6:9-13 口語訳


私たちには、どのように祈るべきか、何を祈るべきか、どのような願いを抱くべきか、どのような作法が神を最も喜ばせるか、そして私たちにとって何が最善かを示す、祈りの最も完全で普遍的な形式が定められています。それは、私たちのすべての真実なる求めを理解し、律法に適った望みを表現し、私たちの瞑想の完全な記録簿を作成し、完全に実践することです。

主はここで、私たちがこのように……これらの事柄、これらの言葉を……祈るかを指示されています。この祈りをこの方法で行うと、その祈りは短く、信頼に満ち、完全なものとなるのです。

この祈りは三つから成り立っています。序論、嘆願、結論です。序論は「天におられるわたしたちの 父よ」(マタイ6:9)ですが、祈りの一般的な基礎とな る部分です。この部分は私たちが祈る前に聞いてくださるという確信を持って、神について知らなければならないことを語っています。それは私たちに信仰、謙遜、神と人の愛、神に対して祈りの中で近づくことを語っています。


今回は真の祈りについて学びました。3点を確認して終わりにいたします。

まず第一に、祈りでは意識を人間ではなく、父なる神様に集中させることが重要です。人々を感動させる方法を考えるような雑念は捨て、父なる神様に祈りを捧げましょう。

第二に、真の祈りとは生きている神との個人的な対話です。これは非人格的なものやおまじないではなく、修行でもありません。それは生ける神様に対するお話ですから、ただ一方的に報告することではなく、耳を傾けるときがたいせつです。

第三に、私たちの個人生活の中心に、祈りの祭壇があるでしょうか。もしかして、忙しさにかまけて祈りの祭壇をおろそかにして崩れかけていたことがあるとしたら立て直しましょう。生活の端っこに祈りを押しやっていたとしたら、生活の中心に祈りを据えなおすことです。朝起きたら、祈りの時間をまず第一にすることです。父なる神様との交わりを、一日の一番のときに確保するように生活全体を立て直すことです。


出所前、携帯電話のことで悩みつつお祈りをしたことがありました。祈りを終え、テレビのスイッチを入れると画面に大きく「1963」の文字が描かれたことがあります。「ケネディ暗殺」の番組でしたが「1963」はある理由から私が電話の番号にしようと思っていた数字です。答えてくださる神がいます

 

NEW ORDER 「1963」