アブラハムとイサクの物語は、聖書の創世記に記されています。この物語は、アブラハムが神からの試練として、自分の息子イサクを生け贄としてささげるよう命じられる場面を描いています。この物語は、多くの宗教的・哲学的な視点から解釈されており、以下にいくつかの観点を示します。

1. **信仰と試練**: アブラハムは神の命令に従い、イサクをモリヤの山で生け贄としてささげようとします。この試練は、アブラハムの信仰と忠誠心を試すものであり、彼の従順さが神によって認められます。

2. **象徴的意味**: アブラハムとイサクの物語は、キリスト教においてはイエス・キリストの贖罪を予示する象徴とされています。アブラハムがイサクを生け贄としてささげることで、神の愛と犠牲を表現しています。

3. **人間の選択と神の摂理**: アブラハムは最終的にイサクを生け贄としてささげることはありませんでした。神は代わりに羊を提供し、アブラハムの忠誠心を試す意図を示しました。この物語は、人間の選択と神の摂理の関係を考える上で興味深いものです。

4. **教育人間学的視点**: アブラハムとイサクの物語は、人間の成長と選択についての教育人間学的な視点からも解釈できます。アブラハムが「内的促し」に従って出発する姿勢は、教育においても重要な要素となります。

 

この物語は、宗教的な意味だけでなく、人間の信仰、選択、試練について考える上で深い洞察を提供しています。

聖書は、神が「共にいる神」として、創造された世界における神の願い、関わり、導きを描いた「神の物語」を記述しています。その物語の始まりに、神の民を創り出すために選ばれたのがアブラハムです。アブラハムの物語において、第22章の出来事はクライマックスとされています。百歳で、神から与えられた唯一の息子を「全焼の供え物として捧げよ」と神に命じられます。

神はアブラハムを試されました。神はアブラハムに「アブラハムよ」と呼びかけます。アブラハムは「はい」と答えました。すると神は命じます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

「試練」でした。決して「最後には神が止めてくださるだろう」と期待したのでもありませんし、「アブラハムは神への信仰が深かったからわが子も喜んで捧げたのだ」だとしたら意味がなくなります。アブラハムにとって悲しみや疑いや嘆きが心中に渦巻いたことでしょう。

創世記12章においてアブラハムは主なる神からの命令を受け、生まれ故郷ハランを離れ、父テラと別れて神に従いました。神は命令と共にアブラハムに祝福を与えたため、彼は故郷を離れ父との別れを乗り越え、行き先が定まらない旅に安心して出発することができたのではないでしょうか。

 

アブラハムは黙々と翌朝早くに旅支度をして、二人の若者と一緒にイサクを連れて出立します。薪も割って、場所へ向かいます。三日目、その場所が見えると、
 

アブラハムは若者に言った。 「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」 
創世記 22:5


「私たち親子は、あそこへ行って礼拝し、二人で戻る」とアブラハムは言いました。イサクは「お父さん」と父を呼び、アブラハムが「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは尋ねました。「火と薪はありますが、焼き尽くす献げ物となる小羊はどこですか?」アブラハムは「神が焼き尽くす献げ物の小羊を備えてくださる」と答えました。そして、二人は共にその道を歩んでいきました。

アブラハムが神様に抵抗する事なく、イサクをささげようとする姿を見るとき、アブラハムの人間性を疑う人もいるかと思います。しかし断じてアブラハムは息子をささげることに対して、痛みを覚えないような冷徹な人間ではなかったはずです。

それは直前の21章からも明らかです。21章において、アブラハムは愛すべき妻サラとの間に待望の息子、イサクが与えられました。サラがイサクを与えられたとき、どれほど大き な喜びに包まれたかについては、6節の「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」という言葉からも明らかです。アブラハムとて。8 節に「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」と書かれている通りです。

 

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築いて薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは手を伸ばして刃物を取り息子を殺そうとしました。そのとき御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけます。彼が、「はい」と答えると、御使いは言います。

 

御使いは言った。 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
創世記 22:12


アブラハムは目を凝らして見回しました。すると後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っています。

 

主なる神が私たちを試みられるのは何故なのか。私たちが苦しむ姿が見たいからなどという理由では決してありません。そうではなくヤコブの手紙1章12節に「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」とあるように、私たちが適格者として認められ、命の冠をいただくために、主は私たちに試みを、試練をお与えになるのです。

主は私たちのために試みを与え、また救いの道までをも備えてくださる方なのです。だからこそ私たちは絶望する必要はないのです。試練の中に、それも息子を自分の手で殺さねばならないほどの絶望的な試みにあったアブラハムは「きっと神が備えてくださる」と彼が神から与えられている信仰によって言いました。そしてその言葉通り、救いの道を備えてくださった真実な方こそが、私たちの主なる神なのですから。

 

この出来事は、私たちが「神は結局のところ私たちに犠牲の死を求めている」という私たちの誤った考えに警鐘をならすものです。神が私たちに求めているのは「死を経験するという犠牲」ではなく、自分の命を神に捧げることです。イエスのように私たちは自分の命を神にささげる覚悟を持つべきです。

「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカ22:33)という言葉ではなく、「あなたの死は、私の死であることを認めます。それは私の命を神にささげるためです」という姿勢が求められているのです。

私たちはしばしば、神が私たちに「何もかもあきらめよ」と言っているように感じることがあります。しかし実際には神はアブラハムを清めてくださいました。同じ訓練を私たちも通っていかなければなりません。私たちが手放すべきものは、単に物質的なものだけではありません。それは私たちの生き方を引き止めている束縛や偏見、過去の傷なども含みます。

聖書には、「何もかも手放せ」という厳格な命令はありません。しかし、私たちが持つ価値のあるもの、すなわち神とともにある生き方を手に入れるためには、何もかも手放してみる必要があります。それは私たちが束縛から解放されるための試練でもあります。

イエス・キリストの死は、私たちの死と一体化させることで、私たちを束縛から解放します。その死と復活によって、私たちは新しい生命を受け、神と共に歩む道を選ぶことができるのです。

その後、ようやく私たちは神との関係に入り、自分の生涯を神に献げることができます。死ぬことを目的として自分の命を捧げたところで、神にとっては何の価値もありません。神は、あなたが「生きたささげ物」であることを望んでいます。それは、イエスを通して救われ、聖められたあなたのすべての力と能力を神が使用できるようにするためです。これこそが神に受け入れられるささげ物なのです。

オズワルド・チェンバーズ

 

若き日のヤクザ時代、へたを打って(へまをして)指を詰めて詫びを入れろと言われたことがあります。出刃包丁を指にあて、いざ切り落とす瞬間に涙が込み上げてきました。アニキが肩をたたいてくれた。「もういい、もう落としたもおんなじじゃ」と声をかけてくれました。

今回の記事を書きながら、なぜかこの出来事を思い出していました。「なんとか助からないか」なんて考えもしませんでした。潔く覚悟したはずでした。その境地に救いがあったのかもしれません。