詩篇9篇と10篇は本来一つの歌であったと言われています。それは各節がヘブル語のアルファベットを頭文字として9篇から10篇につづいているからです。しかし内容的には詩篇9篇と10篇は、言わば正反対の書き出しで始まります。9篇は喜びに満ちて溢れんばかりの感謝と賛美を主に献げることから始まります。
 

[1] わたしは心をつくして主に感謝し、 あなたのくすしきみわざをことごとく宣べ伝えます。 [2] いと高き者よ、あなたによってわたしは喜びかつ楽しみ、 あなたの名をほめ歌います。
詩篇 9:1-2 口語訳‬


一方、10篇は主への切々とした訴えから始まります。
 

[1] 主よ、なにゆえ遠く離れて立たれるのですか。 なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。
‭詩篇 10:1 口語訳‬


一見、正反対に見えるものの、実際には一つの信仰がその根底にあります。詩篇9篇の冒頭でダビデが感謝を表したのは、「義なる主が悪人たちを滅ぼし、裁きを行ったこと」でした。一方、詩篇10篇の1節以降では、「主が正しい裁きを行わず、悪人たちが神を侮辱する様子」に対して訴えています。つまり、詩篇9篇と10篇は「万物は義なる裁判者である主によって支配されている」という信仰にしっかりと立脚しています。

 

9篇の前半は信仰の喜びの謳歌です。その喜びは神が願いにこたえてその御業をあらわしてくださったことによるのです。

神はご自分に頼る人々をいつか完全に救い出してくださるので、ダビデは主に賛美をささげました。確かに神はご自分の敵にさばきを下されます。この世界では悪の勢力が繁栄しているように見えるので失望させられるかもしれませんが、みことばによって主が最後にあらゆることを正常化されるということを神の民は覚えなければならないでしょう。ほかの人々や情況が神への信仰を弱めたり破壊したりしようとしても、神に対して忠実であり続けるなら、神はそれを尊重してくださいます。
 

* 賛美の重要性

(1) 旧約聖書の記者たちは次の三つの基本的用語を用いてイスラエル人に神を賛美するように勧めています。「バーラク」(「祝福する」)、「ハーラル」(「主を賛美する」という「ハレルヤ」はここから来ている)、「ヤーダー」(「感謝をする」と訳されるときもある)。

(2) 聖書に最初に記録された歌はイスラエル人が紅海を渡ったすぐあとに歌ったものです。それはエジプトの軍隊から奇蹟的に救われたことに対して神へささげた感謝と賛美の歌でした。後にモーセはイスラエル人に、約束の地を与えてくださる神の慈愛を覚えて神を賛美するように命じました(申命記8-10)。デボラの歌は特に敵に勝利したことに対して主を賛美するように人々に呼びかけています。

**デボラの歌(士師記5章1-31節)**
デボラの歌は、古代の言語で書かれており、士師記の中でも最古の資料とされています。この歌は、デボラとバラクによって歌われた勝利の歌です。デボラはシセラの指揮するカナン軍と戦い、民族の解放に成功しました。この歌は、目撃者が生き生きと物語り、戦争の騒音、野戦の音楽、嵐の中の雷鳴、洪水の押し寄せるさまを描写しています。ヘブル詩の特徴である対句性と韻律が巧みに組み立てられており、神の臨在と勝利を讃えています。


ダビデの神への賛美は生涯の物語にも(2サムエル22章)、ダビデが作った詩篇の中にも記録されています。詩篇のほかの作者も神を賛美し、神を尊ぶような生き方をするように神の民に訴えています。さらに旧約聖書の預言者たちも神を賛美するように神の民に指示しています(イザヤ12:1)。

 

[1] その日あなたは言う、 「主よ、わたしはあなたに感謝します。 あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、 その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。
イザヤ書 12:1 口語訳‬


(3) 神を賛美するという呼びかけは新約聖書全体に鳴り響き繰返されています。主イエスは天におられる父を賛美されました(マタイ11:25, ルカ10:21)。パウロはあらゆる国民が神を賛美することを期待し、ヤコブも神を賛美するようにと言っています(ヤコ3:9, 5:13)。そして黙示録は、数えきれないほど多くの聖徒と天使がいつまでも神を賛美し続けている姿を描いています。

(4) 神を賛美することは天使たちの主な働きの一つです。また子どもであれ、若者であれ、おとなであれ、神の民の特権でもあります。神はあらゆる民族に神を賛美するように招いておられます(イザヤ42:10-12)。

 

[10] 主にむかって新しき歌をうたえ。地の果から主をほめたたえよ。 海とその中に満ちるもの、海沿いの国々とそれに住む者とは鳴りどよめ。 [11] 荒野とその中のもろもろの町と、ケダルびとの住むもろもろの村里は声をあげよ。セラの民は喜びうたえ。山の頂から呼ばわり叫べ。[12] 栄光を主に帰し、その誉を海沿いの国々で語り告げよ。
‭イザヤ書 42:10-12 口語訳


息のあるものはみな大声で神を賛美するようにと言われています(詩篇150:6)。神は自然界でご自分が造られたもの全部、太陽や月や星、雷やひょうや雪や風、山や丘や川や海、あらゆる種類の木、あらゆる生きもの、などに神を賛美するように命じられました。神が造られたものはみな神の栄光を示し、神は賛美を受けるのにふさわしい方であることを示しています。
 

* 義によって世界をさばき

[8] 主は正義をもって世界をさばき、 公平をもってもろもろの民をさばかれます。
‭詩篇 9:8 口語訳‬


神の審判は神の慈愛と峻厳の現れです。その慈愛は、御名を知る者、主を求める者(10節)に向けられ、主は虐げられた者の砦となり、苦しむ者の叫びをお忘れになりません(9, 12節)。その峻厳は、悪しき者、神を忘れる者に向けられ、彼らは滅ぼされ、陰府へ去り、その名は永久に消し去られます(5~6, 17節)。神の正義と公平に基づく裁きでは、その慈愛と峻厳が正確に行使されるのです。

1~2節は主と奇しいみわざの賛美、3~6節は歴史に現れた峻厳な神の裁き、7~12節は信仰者の慰めとなる慈愛なる神の裁き、13~16節は正しい裁きの求め、17~18節は義なる者と悪しき者への最後の大審判を求める祈りへとつながります。
 

* 信仰の喜び

私たちが謙虚に神の導きを求める時、神はどんな人にも恵みと聖霊を注ぎ、喜びを与えてくださいます。この喜びを経験した人は、それを伝えずにはいられなくなります。しかし、この喜びがなければ、どんなに上手に話そうとも、その言葉には心がこもっておらず、空虚で聞き苦しく、不快なものになります。

この詩人は神の約束を深く信じ、その通りに生きていました。そして神は、彼の想像を超える栄光をお示しになりました。第1節と第2節はそうした経験から生まれた喜びに満ちた歌です。私たちの信仰生活も同様であるべきです。技術がいかに進んでいても、計画がいかに完璧であっても、喜びが伴わなければ順調な時は良いものの、困難な時にはすぐに立ち行かなくなってしまいます。詩人がそのような偉大な約束を実現できたのは、彼の忍耐強い信頼に基づく生活があったからに他なりません。

アブラハムもまたそうでありました。聖書は彼が祝福を受けるにいたるまでには、長いみことばに寄り頼む生活があったことを物語っています。それと同時にその長いみことばに寄り頼む生活には、信仰の父と呼ばれるアブラハムでさえ幾度もつまずきが、あるいは疑いがあったことを語っています。


神に寄り頼んでいく、自らを低くしていくことのむつかしさを深く思わせられずにはいられません。詩人は20節において、自分がただ人であることを知らせてくださいと述べています。

 

[20] 主よ、彼らに恐れを起させ、もろもろの国民に 自分がただ、人であることを知らせてください。〔セラ
‭詩篇 9:20 口語訳‬


私たちも自分の思いや計画、あるいはそこから生じてくるあせりがどんなにあっても、どうにもならない人間であること覚え、いつ、いかなるときにも神に寄り頼んでいくものでありたいものです。