紀元前約1900年頃 、四人の強大な王が、五つの都市の王たちと戦った。彼らは長い間、エラムの王ケドルラオメルに従っていたが、ついに反乱を起こした。しかし、ケドルラオメルとその同盟者たちは反乱を鎮圧し、敵を打ち負かした。その戦いの最中、ソドムとゴモラの王たちは逃げ出し、天然アスファルトの穴に落ちてしまった。彼らの財産と食糧はすべて奪われ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも連れ去られた。

この知らせを聞いたアブラムは、自分の家で生まれ育った奴隷たちを集め、ロトを救出するために行動を起こした。彼は夜に分かれて敵を襲い、ロトとその財産、そして他の人々をすべて取り戻した。

アブラムが勝利して帰ってくると、ソドムの王が彼を出迎えた。また、いと高き神の祭司であるサレムの王メルキゼデクもアブラムを祝福し、パンとぶどう酒を持ってきた。アブラムは感謝の意を示すために、すべての物の十分の一をメルキゼデクに贈った。

しかし、ソドムの王はアブラムに、「人々を返してほしい。財産はあなたが持っていっていい」と言った。だがアブラムは、「私は天地の造り主、いと高き神に誓います。あなたの物は一切受け取りません。私が裕福になったのはあなたのおかげだと言われたくありません」と答えた。そして、彼は自分と共に戦った人々、アネル、エシュコル、マムレには、彼らの分け前を取らせることを約束した。

 

以上が創世記14章の箇所に記された物語です。アブラムの勇敢さと公正さ、そして彼の信仰心が描かれています。彼は家族を救うために立ち上がり、また彼の成功を神の恵みに帰したのです。この物語は、信仰、公正、そして家族への愛の力を象徴しています。

 

**メルキゼデク**

旧約聖書に登場する人物で、創世記(14:18)にて「いと高き神の祭司」として紹介されています。また、「サレムの王」とも呼ばれています。彼はエルサレムと同一視される都市「サレム」の王であり、神の祭司でもありました


近隣の王たちとの戦いの後、アブラムは不安と恐れを抱くようになりました。神は幻の中でアブラムを祝し、守り続けると再び保証されました。しかしアブラムは自分に相続人がいないことを心配し、奴隷の一人を養子にすることを申し出ました(15:2)。しかし神はその考えを退け、アブラムと妻のサライにはなお息子が生まれ、その息子からもっと多くの子孫が生まれると約束されました。アブラムが偉大だったのは、その神を信じたことでした。そのような信仰をアブラムが持っていたので、神はアブラムを義人と認められました。

神はアブラハムに二つの約束をしました。前回の記事で取り上げました創世記12章の箇所です。第一は神はアブラハムを大いなる国民とし、祝福し、その名を大いなるものとし、彼の名は祝福となる。第二は神はアブラハムを祝福する者を祝福し、のろう者をのろい、地上のすべての民族が、アブラハムを通して祝福される、という約束でした。

これまで見てきた中で、アブラハムもサラもこの約束が一体どのように成就されるのか想像もついていなかったようです。15章の冒頭では神が約束の内容を再びアブラハムに語る場面から始まります。するとアブラハムは本当にそうなるのか疑問を持ち、自分のアイディアを神にぶつけてみるところから始まります。

神に疑問を投げかけることは不信仰ではなく、むしろ神を否定し、神抜きで生きることが不信仰にあたります。信仰の深さは疑問の有無ではなく、私たちが信頼を置く場所によって決まります。信仰とはルターが言うように「自分を神に委ねること」です。

クリスチャンは時に、疑問を持つことが信仰不足だと教えられたり、そう感じることがあります。しかし、私たちがこの世のすべてを理解することは不可能です。なぜなら、'現在'、'過去'、'未来'を完全に把握することはできないからです。神は「私に任せなさい」と言われますが、理解できないことがある時は子どもが親に質問するように、私たちも天の父である神に尋ねるべきです。


あるとき、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。「アブラムよ、恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。この言葉はアブラムにとって大きな恵みででしたが、アブラムは主に向かって、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」と反問しました。

しかし主はなおも「星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるであろう」と言葉を重ねられるだけでした。誰が一体、この言葉を神の約束として信じることができるでしょうか。しかし、聖書は、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と記しています。彼が信仰の父と呼ばれ、イスラエルの祝福の基となり得たのはこの信仰によるのです。


私たちは現実の世界に生き、現実を無視することはできません。しかし、現実に生きるからといって、それに飲み込まれる必要はありません。私たちは、現実を創り出し賜った主なる神を信じ、私たちのためにひとり子を与えるほどに私たちを愛された神を信じています。だからこそ望みが見えない時でも希望を持って生きることができます。信じることは現実からみことばの確かさを求めるのではなく、みことばに基づいて現実を受け入れることなのです。

神のことばにおいて、信仰と正義が初めて同時に示されたのはここです。旧約聖書における信仰は「信頼する」「頼る」「忠実である」「誠実である」という意味を含んでいます。ここで「信じる」と訳されている言葉は、従順な信仰に基づいて行動し、信頼を具体的に示すことを意味しています。従って、信仰は実際の行動を通じて証明されるものです。アブラムが持っていた信仰は、まさにこの種類のものでした。

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」1517年、マルティン・ルターはヴィッテンベルクの城教会の扉に「95か条の論題」を掲示し、宗教改革の始まりを告げました。ルターはローマ書1章17節「義人は信仰によって生きる」を中心に据えていました。

主を信頼し、自らを委ねることが真の義であるとルターは説きました。そして、完璧な善人であることではなく、神との正しい関係にあることが真の義であると神学者Darrell Johnsonは述べています。パウロはローマ人への手紙4:2-5で、アブラハムの行いではなく、神を信じたからその信仰を義とされたと語ります。

 

[2] もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 [3] 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 [4] ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 [5] しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
‭ローマの信徒への手紙 4:2-5 新共同訳‬

 


神が信仰者に幻を示される時は、信仰者をいわば「御手の陰に」かくまってくださる時でもあります(イザヤ49:2)。その時に信仰者がすべきことは、静まって耳を傾けることです。光が眩しすぎて、かえって何も見えないという「暗闇」がありますが、それはひたすら耳を澄ます時です。創世記のアブラムとハガルの物語は、暗闇が訪れたとき、「賢明な助言」と言われるものに耳を傾け、神からの光を待たないとどういうことになるか、という格好の実例です。

神があなたに幻を示してくださったのに、その後に暗闇が臨む場合は、ひたすら待つことです。神の時が来るのを待っていれば、神はあなたの人生に対する幻を具体化してくださいます。アブラムは十三年にわたる沈黙の期間を通りましたがこの年月の間に、神に頼らずとも自分でやっていけるという自信は、ことごとく打ち砕かれてしまいました。

そしてもはや自分の常識が当てにならなくなりました。この沈黙の年月があったのは、神の不興を買ったためではなく、訓練のためでした。自分の生活がいつも喜びと確信に満ちたものであるというふりをする必要はどこにもありません。大切なのは、ただ神を待ち望み、神に根ざすことだけです。

そもそも私たちはどこかで肉の力に信頼しているのではないでしょうか。それとも、自分自身や他の信仰者たち、また書物や祈り、そして霊的高揚感に頼ることを卒業し、神の祝福にではなく神ご自身に揺るぎない信頼を置いているでしょうか。

私たちの誰もが訓練を受けます。それは、神が現実の御方であることを知るためです。神が私たちにとって現実の御方となるやいなや、人々の存在は影のように希薄になります。神ご自身の上に自分を築いた人は、たとえ他の信仰者たちが何を言い、何をしようとも動揺させられることはありません。

オズワルド・チェンバーズ