[1] 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。 [2] わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。[3] あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
‭創世記 12:1-3 新共同訳‬


アブラム(後にアブラハムと改名された)の召命は創世記12章に記録されています。この章は人類との関係を回復しようとする神の目的が啓示される旧約聖書の中での新しい区分の始まりです。人間の反抗の罪が神との関係を壊してしまいましたが、人間にはその回復が絶対に必要なことを神はご存じでした。そこで神はこの目的のために貢献できる人を探されました。神を知り、神に完全に頼り、神に仕えたいと願う一人の人を求められたのです。それがアブラムでした。この人から主のご計画を知り、それを教え守ろうとする一つの家族が後に生れることになります。

そしてこの家族から特異な(他と違う)民族、特別な神との関係を持つ民族が生れます。彼らは他の民族が歩む神を敬わない道を拒んで、むしろ神のご計画を実現しようとします。そしてこの民族から世界の救い主、イエス・キリストがお生れになるのです。この方こそが創世記3章に記されている、女から生れ、蛇を踏み砕くと神が約束された方です。


アブラム(後のアブラハム)が神から召命を受けた状況は、旧約聖書『創世記』に詳しく記されています。

1. **召命の状況**
アブラムは、父テラと共に偶像崇拝が盛んな故郷ウルを離れ、妻サライ(後のサラ)、甥ロト、多くの使用人を連れてカナンに向かう途中、ハランに住み着きました。父の死後、ハランに住んでいたアブラムは、神から啓示を受けました。

2. **神の声**
神はアブラムに、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすればわたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」と仰られました。

3. **アブラムの反応**
アブラムは神の言葉を信じ、75歳の時にサライと共にハランを出発し、神が示す地カナンへ向かいました。彼の行動は神への深い信仰と従順さを示しています。

4. **その後の経緯**
アブラムがカナンに到着した後、神は再び彼に現れ「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束しました。しかしアブラムとサライには子どもがいなかったため、この約束が実現するまでには時間がかかりました。それにもかかわらず、アブラムは神の約束を信じ続け、最終的には神の約束通りに大いなる国民の祖となりました。


アブラムはカルデヤのウルで召命をうけたとき、その時期をずっと待っていたのです。そして兄弟ハランがウルで死に、父テラもハランの地で死んだとき、彼は信仰によって歩むべき時がやってきたことを悟ったのです。物事には時期があります。信仰、信仰と、信仰だからいつでもいいかというとそうではなく、その信仰によって歩み出すべき契機となる出来事があるのです。アブラムにとってテラの死は、まさにその一つの大きな出来事であったに違いありません。

さてアブラムがそのような召しを受けたとき、彼はどのように応答したでしょうか。4節~5節に「アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。」とあります。このとき彼は75歳という高齢でした。一般的に考えればもうゆっくり暮らしたいという年なのではないでしょうか。今よりも全体的に寿命が長かったとはいえ、それでも75歳という年は高齢でありました。にもかかわらず彼は、主がお告げになったとおりに出かけて行きました。

アブラムが神の声を聞いたときの心情は聖書には直接書かれていませんが、彼が神の命令に従い、見知らぬ土地への旅を決断したことから、彼が神への深い信頼と尊敬の念を抱いていたことが想像できます。また神の約束により、未来への期待と希望を感じていたことでしょう。


アブラハムの召命には信仰者が学ぶべき重要な原則が含まれています。アブラハムには自分の国、自分の民族、自分の家族から離れることが求められました。神はご自分の目的を果すときに妨げとなるものから、神の民が分離しなければならないという重要な原則を確立されたのです。神はアブラハムに特定の土地が与えられ、子孫が偉大な民族になること、地上の民族全部に影響を与えることになる祝福を約束されました。この約束の最後の部分はキリストの福音が全世界に伝えられる中で成就されつつあることを新約聖書は明らかに教えています。

またアブラハムの召命には約束と義務が含まれていました。約束は未来に起こることへの期待でありますが、義務は同意したことを確信してそれに携わることです。神はアブラハムに、神を主、生涯の導き手、権威として使い、自分をゆだねていくことを要求されました。それは約束されたものを受取るためでした。


なぜ彼は神にすべてをゆだね、出かけて行くことができたのでしょうか。ヘブル11章8~10節には、

[8]「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しをうけたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。[9] 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。[10] 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあります。

服従とゆだねることには、人間的には不可能に見えるときでもなお、神のことばに頼ること、自分の家を出なさいという神の命令に従うこと、神の標準に従って生活し、神が正しいと言われたことを行うように努めることが含まれていました。


アブラハムへの神の約束と祝福は、肉体的子孫(ユダヤ人)に限定されるものではありません。約束はアブラハムの子孫であるイエス・キリストを受入れ従う人々全部に及ぶものです。アブラハムのような信仰を持つ人はみな、「アブラハムの子孫」であり、アブラハムとともに祝福されます。その人々はキリスト・イエスにある「約束の御霊」を含む約束を、信仰によって相続することになるのです。

アブラハムは信じてその結果従ったので、救いに至る純粋な信仰(神が喜ばれ神との関係を持つことを許される部類のもの)を示す最高の模範となりました。聖書によれば、イエス・キリストを救い主として信じていると言っても、自分の生涯の導き手、権威として従わない人は救いに至る信仰を持っているとは言えないのです。

聖書の信仰は契約の信仰です。それは主権的な神の契約であり、従順を求め、祝福を約束する契約です。契約の内容は聖書の歴史において、また、アブラムの生涯においても進展的に啓示されています。信仰の父と呼ばれるアブラムですが、彼の生涯の物語は、約束の成就が神にかかっていることを信じる信仰へと導かれる神の働きを中心とし、彼の信仰的な弱さと対照的に描かれています。


聖書全体の真ん中は詩篇118篇です。その前が全部で594章、後が594章です。この数字をたすと全部で1188です。そして、聖書全体の真ん中の節はどこかというと、詩篇118篇8節です。その詩篇118篇8節にはこうあります。「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。」)神はこのことばを教えの真ん中におかれました。アブラハムはまさに主に身を避けた人、主のみことばに信頼した人です。だから神のみことばに従って出て行くことができたのです。


Copilot (AI)からの回答
聖書の章と節の区分は、いつごろできたのでしょうか?

聖書は、ヘブル語とギリシャ語で書かれており、元々は章と節の区分はありませんでした。しかし、現在の聖書には章と節があります。

章の区分は、約1227年にカンタベリーの大主教、スティーブン・ラントン(Stephen Langton)によって導入されました。彼は聖書を章に区分しました。その後、1382年に出版された「ウィクリフ英語聖書」が、初めて英語訳聖書の中でこの区分を採用しました。それ以降、ほとんどの聖書がラントンによる章区分を採用しています。

節の区分は、約200年後に導入されました。旧約聖書ではユダヤ人ラビのナタン(Nathan)が、新約聖書ではロベール・エティエンヌ(Robert Estienne)(別名ステファナス)が節を付けました。現在の聖書には、約500年前からある章と節の区分があります。

聖書の真ん中にある聖句は、詩篇118篇です。聖書全体が1189章で構成されており、前半594章と後半594章に分けると、詩篇118篇が真ん中に当たります。そして、詩篇118:8が聖書の真ん中の聖句とされています。この聖句は「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい」という内容です。

聖書の章と節の区分は、聖書を理解する上で非常に有益なものであり、神様の摂理の御手を見ることができると思います。


わたくしの近況
結核の治療薬がとても強く、視野狭窄、肝障害、耳鳴り、関節痛などがあります。結核菌が完全にいなくなるまで隔離が続くようで「先のこと」がまるでわかりません。就寝時間がきて枕に頭を置き「何も悪いことをしていないのに災難だな~」とかと考えます。「あれをどうしよう、これはどうなるか?」と考え事ばかり(笑)結局は心配性な人間💦 「信仰が試されているんだなぁ」と思います。


信仰の戦い

[11] しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
‭テモテへの手紙一 6:11 新共同訳‬

 

[6] どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。[7] そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙 4:6-7 新共同訳‬