[1] 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。[2] 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。[3] 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。[4] たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。[5] あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。[6] わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
詩篇 23:1-6 口語訳

 

 

ダビデの最もよく知られている詩篇の中に、試練の中で神と親しく歩むダビデの姿が表現されています。ダビデは「死の影の谷」がどのようなものか知っていました。義理の父であるサウルも、自分の息子アブシャロムも軍隊を率いてダビデを追い詰めました。最も近しい関係にある人が死の影を落とすのを乗り越えていくのは非常に辛いことです。これらの死の影を通る時こそ、父なる神の栄光の内に生き続けなければなりません。ダビデは「主は私のたましいを生き返らせる」と言いました(NKJV訳は「魂を回復させる」)。ダビデの魂は神からの働きかけによって完全に回復させられる必要がありました。

主は私の羊飼いと呼んでいますから、ダビデは明らかに救われていたことはこの聖句からわかります。義の道とは個人の聖さを表します。ダビデは神から生き方を学んでいました。ダビデは「神こそが私の魂を回復させる」と語ります。私たちの魂は救われていたとしても、過去の傷やトラウマからの回復は時間と努力を必要とします。これは神の恵みと共に、自己の内省と癒しのプロセスを通じて達成されます


私たちの魂には感情があります。一つの思いを使って敵は私たちの感情を揺るがすことができます。敵は一つの思いを用いて私たちの感情を攻撃し、私たちの考え方に侵入しようとします。否定的な感情と落ち込みは真理を攻撃し、私たちの選択や決意を崩すことができます。敵の目標は、私たち自身と私たちの任務に制限をかけることです。感情に振り回されて生きる訳にはいきませんが、かといって無視することもいけません。

主が与えてくださる喜びが私たちの力です。神にあっての喜びこそが私たちの思考にある神の思いや知恵の力を最大限に引き出す触媒です。それは問題が取り除かれる前から賛美することを選び取る所から始まります。感謝をもって主に目を向け続ける事は、神の方が問題よりも大きいと認識していることになります。礼拝を捧げる時に、神が私たちの心に働きかけてくださり、勝利を得るための知恵と権威を解き放って下さいます。

 

私の内妻のFさんがあと2か月たらずで刑務所から出所してきます。内縁同士と言っていいような間柄かどうかは私にはわかりません。でも周りの知人は「アブさんはいつもFさんのことばかり心配しているね」と茶化してきます。自分でも無意識のうちにそんな行動をしているのでしょう。確かにFさんの出所に向けて準備をしてきたのは事実です。それが今回の結核での入院でどうにもこうにも。出所を待ち、迎えてくれる人間がいる喜びはよくわかっています。

 

なんにしても何故Fさんの出所のタイミングで強制入院へと陥らなければ?思いもかけない準備不足が噴出してきます。まったく詰めが甘い人間です。でもこれは私にとって信仰のステップアップの時になるだろうと思っています。問題が取り除かれる前から賛美することを選び取る所からスタートしたいと思います。私の病いや患いが敵からくるものでもきっとこれは恵みの房を結ぶでしょう。

 

 

人は霊、魂、体で構成されています。霊は、体よりも魂に強く結びついています。霊が体を離れると私たちは死にます。もし魂が回復していなければ、まだ残っている魂の傷に聖霊は制限されてしまいます。

感情は考え方の分野に計り知れないほどの影響力を持っています。恐れは人がリスクを取ることを防いだり、新しいチャンスを逃す原因となることがあります。プレッシャーの大きい仕事や危険な仕事に関わる労働者は、感情によって決断しないよう訓練され試されなければなりません。雇用者は労働者が自然に取ってしまう行動は求められている正しいアクションではないことを認識しています。神は私たちの思いを強めて、将来のために私たちを整えています。

魂は、思い、意思、感情で構成されています。魂の回復は魂の救いとは異なり、より長い行程です。イエスが私たちの魂を救ってくださった時、私たちは天国に入る資格を得ました。しかし感情が癒されるためには、思いを一新させなければなりません。かたくなな心を砕いて、私たちの思いが真理を受け取れるようにしなければなりません。そうすれば霊が自由になります。 非聖書的な思いは、すでにあきらかにされいる真理の内を私たちが歩まない様に道を阻みます。


自信が無いと新しいチャンスや可能性に対して消極的になり、自己成長の機会を逃すことがあります。失うことを恐れるゆえ、今持っているものにしがみつくのです。また未来を作り出す自信とビジョンが無いために、他の人がすでに獲得したものを掴ませることもあります。自信の無さは盗人であり、欺く者、告発者です。自信の無さは、私たちがみな克服しなければならない霊であり、思考、人生観です。ルシファーは克服できませんでした。

 

恐れや拒絶は、どれだけ私たちの賜物を盗んだり制限してしまうのでしょう。神の霊が私たちをすべての真理へと導きます。神の言葉は真理の道で、私たちは神の霊によってそこを歩みます。魂は複雑で、神の助けと真理なくして変えることは不可能です。魂の奥にある信念が思いから隠れていることがあります。予期せぬプレッシャーが閉じ込められた感情を開き、魂から声が発せられ、本人が驚いてしまうこともあります。魂から溢れ出た感情の言葉を聞く時、自分自身も知らなかった事柄を発見することもあります。
 

愛は恐れを締め出します(1ヨハネ4:18)。恐れは愛の欠如で、自信の無さの根源です。父なる神の愛は、自信の無さや不安な気持ちを取り除き、神の子たちに大胆な自信をもたらします。功績に基づいた自信は一瞬で盗まれてしまうかもしれません。自信は父なる神との関係に深く根さざしたものでなければなりません。勝利の経験を伴う神への安心感は、 さらに大きな夢へ踏み出すプラットフォームになります。

 

聖書的な自信と目標は、私たちを一つの季節から次の季節へと導き続けていきます。大抵の場合、一つの季節が完結して、次の季節へと移行します。季節の完結に関して、完壁主義や理想主義によって判断してはいけません。ゴールの達成は、信仰によって完結します。充足感は感謝の心と人生のゴールの現実的な評価によって得られるものです。父なる神は「主であるわたしは変わることがない(マラキ3:6)」と言いました。同時に、不変の神は私たちとその周りのすべてに変化をもたらすお方なのです。

召命と自信のなさは共生できません。私たちは未知に対する恐れを克服しなければなりません。私たちを阻むため、敵は人の態度を操作して状況を作り出し、私たちの内に恐れを引き起こそうとします。敵の計画の真ん中で、神との関係と召命においてさらに高いレベルへと私たちを引き上げるため、神は試験を計画されます。そうして私たちはヨセフのように、敵は悪を謀ったが、神はそれを良いことのための計らいとして下さった、と宣言できるのです(創世記50:20)。

 

もしヨセフが苦々しい思いに屈し、自信を喪失していたなら、彼の兄たちの悪い謀は何の益ももたらさなかったでしょう。兄たちを殺してしまったか、奴隷にしたか、無視したことでしょう。そしてイスラエルは、今日存在していないでしょう。

 

人生の自信が無い分野は、まるで磁石のようで、私たちが感情的に成熟するまで何度でも試練を引き寄せてしまいます。これらの試練を通して、神の栄光をより正確に、より眩しく反映させるにとができるようになります。権威のある者を恐れると、自分が恐れている通りにその人が行動するようにと自分が振舞ってしまいます。怒って大声をあげると、周りにいる人々の怒りや恐れを引き起こすように、深い拒絶感を持っている人は、拒絶を引き寄せてしまいます。人生の出来事や人間関係は、成熟し、恐れを乗り越え、新しい信仰と神への期待を習得していくための機会を提供してくれます。

ヨセフが試練に遭ったのは敵の策略でしょうか、ではなくヨセフが彼の宮廷の夢にふさわしい者となるため、神がこの計画に大きく関わっているのではないでしょうか。これらの試練は彼を成長させ最終的には彼の夢を実現するための道筋をつけました。聖書には、「神はあなた方が耐えられないような試練にあわせることはない」とはっきり書かれています(1コリント10:13)。

 

よくよく考えると主は「骨休め」の時をお与えくださったのかもしれません。全身を入念に調べられ、予想以上に身体が痛んでいるのがわかりました。再スタートの前のメンテナンス。きっと神の絶妙のタイミングだったのです。父なる神があなたの心に隠されたことをあらわにされる時、神のタイミングとご計画の中で私たちを前に押し出して下さるでしょう。