胸に病を感じまして病院で検査を受けましたが「結核」ということが判明し、専門病院にて隔離入院中です。長期になるらしくPCなど持ち込みましたが、あまり多くの本は持参しておらず、ブログ記事も以前のブログの記事を再び読み直しつつ転載していこうと思ってます。

 

 

ヨブ記:その影響と人間の探求

ヨブ記とその影響 

ヨブ記は、その深遠なテーマと普遍的な問いにより、後世に大きな影響を与えました。特に文学や哲学の分野でのその影響力は計り知れません。ヨブ記が取り扱っている「神義論」は、人類にとって常に大きな問題であり、ヨブの悩みはいつの時代にも人間の持つ悩みであると言えます。 

 

親鸞の言葉「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は、私たちが一生懸命に善に励む理由、すなわち善行が善果を生むと信じるからであるという考え方に疑問を投げかけます。同様に、悪行を慎むのはそれが悪果をもたらすことを恐れるからです。 

この言葉を耳にするとき、私はいつも進藤龍也牧師の救いの言葉となったエゼキエル書33章11節、「わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人がその道を離れて生きるのを喜ぶ。」の一節が心に浮かびます。 

 

私たちの世界には「因果応報」の法則が存在するのでしょうか。これは人類が追求してきた課題であり宗教はそれの解釈ともいえます。前述の親鸞の言葉も、この人類永遠の課題に対する彼なりの大胆な釈義であり、彼はそこに仏の慈悲を見たのでしょう。 

 

ヨブの名とその意味 

ヨブという名について、「アッヤ・アブム=(神なる)父は何処に」という意味ではないかと考えられています。これは、生涯を通じて神が臨在されるようにという永続的な祈りを示しています。また、「アーヤブ=憎む」の受動態分詞形で「憎まれ、迫害された者」という意味の名前ではないかという学者もいます。「父なる神はどこへ」も「憎まれ、迫害された者」も、ヨブの苦難について、主なる神は長く沈黙しておられて、ヨブの訴えにお答えにならないというのを、その名前に宛てたというかたちになっています。 

 

ヨブの人生とその試練 

ヨブは義しい人でした。彼は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と言われていました。「無垢」は「ターム=完全な、汚れのない」という言葉で、神の前に示される敬虔さを示しています。また「正しい」は「ヤーシャール=平らな、真直ぐな、正しい、正直な」という言葉で、悪を避けて真直ぐな道を歩む真正直さを示しています。 

ヨブは、七人の息子と三人の娘、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産を与えられていました。冒頭の言葉で、ヨブ記の主人公ヨブは、「ウヅの地」にいたと言います。「ウヅ」は、創世記22章21節ではナホルの長男の名で、パレスチナ北東シリアの地を指すと考えられ、また哀歌4章21節によれば、パレスチナ南東エドムの地を指しているようです。正確な地域はともあれ、東の国一番の富豪であったヨブの家庭に次々と苦難が訪れるには原因があったと聖書は綴ります。 

 

神の前に、神の使いたちとサタンが集まってきました。サタンとは、「この地上を巡回して、方々を歩き回って」、神のもとから人を離れさせる存在です。そのような存在を赦しておられるのは、神がご自身の救いの業の為に用いられるとしか言いようがありません。神はまずサタンに言います。「お前は私のしもべヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」神はヨブをご自身のしもべであると認めています。ここからサタンの神への最初の挑戦が始まるのです。サタンにとってなんとしても攻略しなければならない人間でした。 

義人ヨブに思いがけない災難が次々と襲ってきて彼は一瞬にして財産を失い愛する子たちをもなくしてしまいました。一体そんなことがあってよいのでしょうか。しかしヨブはこのとき、起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言いました。 

 

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」 ヨブ記 1:21 

 

なんと力強い信仰でしょう。まず、自分自身を主語として、すべてを失った悲しみを、「裸でそこに帰ろう」と言い、次いで、この出来事は主の御業だという信仰を示し、結語で「主の御名はほめたたえられよ」と賛美して、すべてを肯定的に受け止めていることを表現しています。 

 

この言葉は、深い悲しみを形式的に表現したことと同様、愛する子らを失った大きな心の痛みを、死別に際しての伝統的な信仰告白の言葉で言い表し、それ以外の暴言が飛び出してくるのを防ぐ垣根としたと理解することができます。 

 

ヨブは言いました、「私が失ったものはすべて失った。しかし、神の名を呼び、神を賛美することは許されています。私が神のしもべであるなら、神の許可なしに私に触れることができる者はいません。これは私の確信です。」 

 

信仰とは、神の言葉を通じて現実を見つめることです。私たちは自分の意見や要望を持っています。しかし神の前では沈黙することが求められます。何らかの理由で神が私たちの生活から離れてしまったと感じる寂しさは、誰もが経験したことがあります。このような乾いた時期は、数日、数ヶ月、あるいは数年続くことがあります。モーセにとって、砂漠の旅は40年間も続きました。 

神が遠くに感じられるとき、私たちは「私はあなたを見放さない、あなたを見捨てない」という神の約束を信じ、心に刻むべきです。主がいないと感じるのは私たちの感情であり、感情は決して神の言葉を上回ることはありません。 

 

私たちは忍耐強く神の言葉をしっかりと握りしめるべきです。乾きはあなたがこれまで行ってきたことの結果だと思わないでください。それどころか神はそこにいてくれます。救い主である主は時に自分を隠すこともあります。しかし主は決して去ってしまう存在ではありません。時には暗闇にいることもありますが、決して遠くに離れることはありません。 

 

神はヨブを信頼のしもべとして選びました。ヨブは自分の信仰を確立し、神の信頼に応えました。これがヨブの物語です。私たちも同じように困難な状況でも信仰を持ち続けることが求められます。それが真の信仰です。