ルツ記は、深い忠誠心と愛を持つ若いモアブ人の女性、ルツがどのようにしてイスラエルの王ダビデの曾祖母になったかを描いています。この書物はさばきつかさの時代の前向きで明るい物語をイスラエルの歴史の中に保存するために書かれました。霊的にも道徳的にも退廃した時代に、生きた神を敬う一家族の誠実さを最高の模範として示しています。


ルツ記は、その独特な特徴と新約聖書での成就により、聖書の中でも特別な位置を占めています。以下にその主な特徴と新約聖書での成就を述べます。

**ルツ記の特徴**
1. 聖書には女性の名前のついた書物が2巻ありますが、ルツ記はそのうちの一つです(もう一つはエステル記)。
2. さばきつかさの混乱した時代にベツレヘムの神を敬う家族が大変な悲しみと最終的に大きな喜びを体験したことが描かれています。
3. 神の贖いのご計画(神との正しい関係に人々を戻すこと)を描いています。その中には異邦人(イスラエル人以外の人々)も含まれています。
4. 書物全体を通しての中心テーマは贖い(回復、救い)です。買い戻しの権利のある親類ボアズはイエス・キリストが十字架でご自分のいのちという代価を払って私たちのいのちを救い、罪から自由にしてくださったことを示す旧約聖書の中の良い例です。
5. この書物の中で最も有名な節は、まだモアブにいたときにルツがしゅうとめのナオミに言った「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます」ということばです(1:16)。
6. 人生には現在でも苦しみや悲劇があることが示されています。しかし、神と神の目的を信じ頼る人々のために神は悲劇を勝利に変えてくださることが詳しく描かれています。

ルツ記は、以下の四つの変わることのない霊的真理を教えています。

1. 困難なときこそ神の目的が達成されるチャンスです。
2. ルツが神のご計画の中に入れられたことは、神の御国に入るにはどの民族に生まれるかは関係がないことを示しています。社会的地位も重要ではありません。重要なのは「信仰の従順」によって神のご計画に従うことです。
3. ダビデ王とイエス・キリストの系図にルツが含まれていますが、このことはどんな人間でも偉大な「ダビデの子孫」であるイエス・キリストの御国に入ることができることを示しています。
4. 買い戻しの権利のある親類のボアズは偉大な贖い主、救い主イエス・キリストを預言的に象徴しています。

これらの特徴と真理を通じて、ルツ記は私たちに神の愛と救いの計画を深く理解する機会を提供します。それはまた私たちがどのような状況にあっても神が私たちの生活の中で働いていることを確信するための強力な証拠となります。私たちはルツ記から学び、神の愛と恵みに感謝し、神の御心に従う生活を送ることができます。


かつてイスラエルのベツレヘムに飢饉が襲い、エリメレクという男は妻のナオミと二人の息子、マロンとキリオンと共に生き延びるためモアブの地へ移り住みました。しかしエリメレクはやがてこの世を去り、ナオミは二人の息子とその妻たち、オルパとルツと共に残されました。マロンとキリオンもまた亡くなりナオミは自らの運命を嘆きました。

彼女はベツレヘムへ戻ることを決意し嫁たちにそれぞれの故郷へ戻るよう勧めました。オルパは涙ながらに別れを告げましたが、ルツはナオミに対する深い愛と忠誠から「あなたの行く所に私も行きます」と誓います。

ルツは義理の母ナオミを愛していました。先だって夫を失ったルツはナオミの行くところならどこであっても一緒にいさせてほしいと懇願します。ルツは心から言った「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と。ナオミはルツの求めに応じ、ルツと一緒にベツレヘムへと旅立ちました。

ルツが貞淑のかがみとされるのはこのゆえです。


ふるさとの地を踏んだナオミを人々は喜び迎えました。しかしナオミは彼らに向かって言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出ていくときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのにどうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」と。

夫に先立たれ、二人の息子を失い、天涯孤独のナオミにとって、その傷はいえがたく、その心は何をもっても満たすことができませんでした。モアブに移住したことに対する悔いもあったかもしれません。しかし今となってはいかなる悔いも彼女の再生の望みとはなり得えませんでした。苦しみこそわが名にふさわしきものであると嘆じたのもゆえなしです。

しかし彼女の生涯は本当にマラの生涯であったのでしょうか。決してそうではありませんでした。彼女の生涯もまた栄光の生涯であったのです。しかしそれは新約にまでいたってはじめて解明される事柄でした。使徒パウロが「『然り』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『然り』となったからである」(*)と語っているとおりです。

* 2コリント1:19-20

19わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。 20神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

 

 


私たちは人生の途中で「わが名をマラと呼べ」と叫びたくなるような時があります。終わることなく寄せてくる暗黒に打ちのめされるとき、神が愛であると素直に口にできないことがあります。人知れず得をぬらしつつ眠れない夜を過ごすとき私たちの心は何をもってもいえず、失望の渕から容易に立ち上がることができないことがあります。

神が愛であるということは、私たちにとって全てが好都合に進んでいるから言われるのではありません。私の人生もあなたの人生も今、マラの様相を呈しているかもしれません。しかし神は愛でありそのためあなたの人生も私の人生もナオミの人生です。そのことに気づくことほどの恵みはありません。


ベツレヘムに帰ったナオミとルツは、人々から歓迎を受けましたが、その日からの生活に困りました。彼女たちには収穫する田畑も、働く田地もありませんでした。そこでルツはナオミに頼んで落穂拾いに出かけることにしました。貧しい人々は落穂を拾って生活していました。ルツが偶然に出かけた畑は、ナオミの亡夫エリメレクの一族であるボアズの畑でした。彼女はここで非常に親切に扱われ、夕暮れ時には多くの落穂を拾って家に帰ることができました。ルツがその日の出来事をナオミに話すと、ナオミは「生きている者も、死んだ者も、顧みて、慈しみを授ける主が、どうかその人を祝福されますように」と神を讃えました。

落ちぶれたナオミにとっては、もはや神の顧みが自分の上に注がれていないのではないかと思うことさえあったでしょう。しかし神が今不思議にも嫁の足を導いて近親者の一人ボアズの畑に行かせ、そこで手厚いもてなしを受けさせてくださったということを知り、彼女の心に再び光が灯り始めました。死んでしまったような自分に神の目が注がれていることを知ったとき、彼女は神を讃えずにはいられませんでした。

ボアズは親族の中で正式な手続きを経て、ルツを妻として迎え入れました。ルツの物語は困難な時でも希望を失わず、忠誠と愛情を持って行動することの大切さを教えてくれます。そしてやがて2人の間にオベデという息子が生まれます。このオベデの孫に当たるのがイスラエルの素晴らしい王であるダビデです。さらにダビデの子孫として後にこの家系から生まれることになるのがイエス・キリストなのです。