山上の説教のテーマは「正しくあれ」です。
マタイによる福音書 5:13 新共同訳
塩は食物に味を付けるだけでなく他の味を際立たせる役割も果たします。同様にキリスト者も自分自身の持つ「味」で周りの人々に好ましい影響を与えるべきです。さらに塩は防腐剤としても機能します。同じようにキリスト者や教会は道徳的な腐敗や崩壊を防ぎ、文化に神を敬う影響を与える役割を果たすべきです。
また塩には癒す特性もあります。同様にキリスト者は肉体的、感情的、そして霊的に傷ついている人々に癒しをもたらすべきです。さらに塩はのどを渇かせます。同じようにキリスト者は良い模範を示すことで、神についてもっと知りたいという霊的な渇きや思いを人々の中に喚起する役割を果たすべきです。
このように、キリスト者は塩のように、世界に良い影響を与え、癒しをもたらし、霊的な渇きを喚起する存在であるべきです。
マタイによる福音書 5:14-16 新共同訳
主イエスの時代に人々はオリーブ油に灯心を浸して灯すともしび皿を使っていました。同様にキリスト者はこの素朴なともしびのように、現在の世界の霊的な暗闇の中で光を輝かせるべきです。キリストを信じる信仰は何をしても隠すことができないものであり、周りの人々にはっきりとわかるものであるべきです。
このように、私たちは自分の信仰を通じて、愛と希望の光を広め、世界を明るく照らす存在でありたいと願います。
「……べきです」という表現が多くて私のように「なまぬるい」ものは尻込みしたくなりますが大丈夫です。私たちが悔い改め(方向転換)イエスを信じると私たちと神様との関係は修復され、神の霊である聖霊が私たちの内に宿り、私たちを新しく生まれ変わらせてくださいます。私たちはキリストによって、神の栄光を現すべき「神のかたち」に回復されるのです。
このように、私たちは神様の愛と恵みによって変えられ世界に光をもたらす存在となります。
誉れ(栄光)の原則を理解することは重要です。さらに誉れを受け取り、与える方法を学ぶことも同様に大切です。イエスは天の父から栄光を堂々と受け取り、また父に栄光を帰しました。誉れは天の通貨であり世俗的なものではありません。
妬みと不安は誉れを殺してしまいます。誉れがないなら、私たちが達成できることはわずかになります。誉れは天の働きが地上に満ちるようにと作用します。天の父が崇められ礼拝される時に聖霊が活発に動きます。誉れはそれぞれの最善を引き出すのです。
天の父は霊的息子や娘に偉大さを注ぐことのできる人たちに油を注いでいます。その偉大さは愛と励ましの言葉によって注がれます。それは意義深い交わりの時を通して人から人へと流れていきます。 どれくらい長い時を共に過ごしたかより会話の深みがより重要です。発掘されていない原石に偉大さを注ぎこむのは父がする働きです。
多くの人は人生の方向と希望を探しています。キリスト者には御子イエスのいのち、愛、光を反映させて神への道を光り輝かす特権が与えられています。これはことばだけではなく行いによって示されるならさらに効果的になります。主イエスとはだれのことでどのような方かを示すためには、主の模範に従って人々の間で仕える人にならなければなりません。
ルカによる福音書 22:27 新共同訳
私たちは小さな親切を示し具体的な必要を満たすことによって人々に仕えることができます。もちろん私たちの希望と行動の背後にある動機について、その理由を「いつでも弁明できる用意をして」いなければなりません。けれども実際の必要に応じようと心配してくれる人のことばでなければ多くの人は耳を傾けません。
たとえば、たましいの食物を与える前に、空腹を満たす食物を与えなければならないことがあります。あるいは近所に住む人の人生のアドバイスをする前に、近隣の清掃を手伝うことが必要かもしれません。不正に反対し食べ物や服を分け与え、虐待されている家族や人々を助けるときに「あなたの光は、闇の中に輝き上がる」のです。
マタイによる福音書5章、山の上で弟子たちに向かって語られた主イエスの言葉(5:3~16)を簡単にまとめるとこうなります。
あなたたちキリスト者は神の民であり、天国の市民です。だから、あなたたちの特徴である心の貧しさ(心が貧しいとは自分の弱さ、足りなさを謙虚に認めることができるということ)や義への飢え渇きが他の人に分かるように生活しなさい。他の人々の心が神へ向かい、神に栄光を帰す者へとなるために、神の栄光をあらわしなさい。
では何を大切に生活すると神に栄光を帰すことが出来るのか。その答えを一言で言うなら「正しくあれ」です。
マタイによる福音書 5:17-18 新共同訳
神の道徳律と儀式的律法は人々が心と知力を尽くして神を愛し、他の人々を愛するために与えられました。しかし、イスラエルの歴史を通じてこれらの律法はしばしば誤用され、間違って引用されることになってしまいました。宗教的指導者たちが律法を複雑にし、人々に負担をかける規則に変えてしまったのです。イエスは神の律法の正しい理解法について話した時、実は律法そのものを批判したのではなく律法が被っていた濫用や行き過ぎを批判されたのでした。
初代教会の人々はイエスが神であると信じていました。イエスは死者をよみがえらせ、奇跡を行い、悪魔や自然の力を制御することを示しました。しかしそれ以上に重要なのはイエスの教えであり、この方の教えに響いている権威であり、それをそばで聞く者たちの中には公認の神の代弁者たちと比べてもはるかに神が語っているようだと受け止めた者たちがいることです。
イエスの説教は人々を揺さぶり、心を打ち、律法に対する新たな理解をもたらしました。律法の遵守は教会において重要な問題でしたが、異邦人が加わることで律法の適用が再評価されました。キリスト者たちはどの部分が本質的で、どの部分が過去の遺物であるかを考えました。
キリスト者たちは変化する世界の中でどうしたら自分たちが神に従順であり続けることができるかを問うたのです。
そこで主イエスはご自身が律法を廃止するためではなく、完成するために来たと宣言されます。主の言葉遣いがどれほど新鮮に聞こえようと、そのご生涯自体がどれほど独特に見えようと、主は全てが完成するまでは律法の文字の一点一画も変えるおつもりはありませんでした。イエスは律法に対してではなく、律法に従わない者たちに対して議論を挑まれたのです。
イエスが律法を廃棄するために来られたのではないとすれば、旧約聖書のすべての律法は今日も適用されるでしょうか?律法には3つの範疇があります。儀式的律法、民法、道徳律です。
(1)儀式的律法は特にイスラエル人の礼拝に関係があります。その主要な目的はイエス・キリストを示すことでした。したがってこれらの律法はイエスの死と復活の後、もはや必要ではなくなりました。私たちはもはや儀式的律法に縛られません。ただしその背後にある原理すなわち、聖なる神を礼拝し、愛するということは今なお適用されます。
(2)民法はイスラエルでの日々の生活に適用されました。現代の社会と文化はこの時代や状況と根本的に異なるのでそれらの指針は全てに具体的に従うことは不可能です。しかし命令の背後にある原理は普及であり私たちの行いを導くことです。イエスはこれらの原理を譬えを用いて説明されました。
(3)道徳律(十戎のような)は神の直接の命令であり、多くの服従を要求します。道徳律は神の性質とどのように神と人との関わりを持つべきかについてのみこころを明らかにするので今日も適用されます。イエスは道徳律に完全にしたがいました。
私たちのうちどれほど多くがモーセの律法を罪と死の律法として捉えていることでしょう? 私たちは主イエスを新しい律法、愛の律法の与え主、負い難い軛に代る追いやすい軛の与え主であると告げ知らせています。ご自身の生涯と死を通して主イエスは私たちに真の愛、真の服従とはどのようなものであるかを示され、そして神はイエスを死者のうちから復活させられることにより、この方を全ての命の主であり模範として立てられました。
イエスは「律法について行きなさい」と言うかわりに「わたしについて来なさい」と言われました。新しい分かれ道を造られたのです。