聖書の真ん中に詩編があります。歌と祈りのこの偉大なコレクションは人間の心と魂を表現しています。これらのうちに人間の経験すべてが表現されているのです。本書には決まり文句が一つもありません。その代わりにダビデや他の記者たちは真実な感情を正直に注ぎ出しています。そこには神とのダイナミックで力強い人生を変えるような関係が映し出されています。詩編の記者たちは自分の罪を告白し疑いや恐れを言い表し困難の中で神に助けを求め神をたたえ礼拝しています。

 

[1] いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず [2] 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 [3] その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 [4] 神に逆らう者はそうではない。 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 [5] 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 [6] 神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びに至る。
‭詩編 1:1-6 新共同訳



1節が神に対する正しい姿勢をとる者の消極的な面をうたっているとすれば、2節はその積極的な姿勢をうたっています。すなわち、そういう人はまず主のおきてをよろこぶ。このおきてという言葉は「約束の言葉」と読みかえられます。

詩篇1篇の記者は神に従う喜びを絶賛し、神を信頼せず嘲る者たちを拒絶することによって詩篇を書き始めています。約束の言葉を信じ神に従う者、主を信頼する者は栄を得ます。「そのなすことはすべて栄える」という句は失敗や困難から免れることを意味しているのではありません。 健康 ・富・幸せを保証しているものでもありません。 聖書が意味する繁栄とは神の知恵を適用する時、私たちが実らせる実(結果または副産物)は良いものであり、神の承認を受けるものであるということです。

木が水を吸収して良い実を成らせるように私たちも神の言葉を吸収して神を尊ぶ行動と態度を生み出さなければなりません。何か価値あることを達成するには心の内に神の言葉を握らなければならないのです。

まず神の言葉をよろこぶ、尊ぶ、そして昼も夜もそのおきてを思う、すなわち、日がな神の約束の言葉に信頼して生きるという意味です。しかしここの「昼と夜」を日がな、終日と受けとると同時に、「明るいときも暗いときも」あるいは「幸いなときも不幸なときも」と受けとることもできます。


主の御言葉は、単に聖書に書かれた文字や言葉ではありません。みことばには「いのち」と「力」があります。「鶴の一声」とも言うように言葉に力があるかどうかは語る人の人格と関係があるでしょう。それが神の言葉なら短い一節でもそれが意味するある概念でも、みことばが全体として語る神の国の世界観でも、聞く人にいのちと力を与え、人を生かし、望みを抱かせ、人を動かし、人を造り変えます。


神は人々を人種、性別、国籍によってさばかれません。神は人々を神に対する信仰と明らかにされた神の御心への応答によってさばかれる。神の御心に熱心に従おうとする者は祝福されています。神は彼らを見守ると約束しておられます。反対に神を信頼せず神に従わない者は、塵のように吹き飛ばされ意味のない人生を送ることになります。私たちの前には人生の道が2つだけなのです。


「他に訪ね行くべき人を知らず、何事につけてもただ彼のみもとに行くことを知る者は幸いである」(キルケゴール『イエスの招き』より)。

「何事につけても」です。喜びにつけ悲しみにつけ、勝利につけ敗北につけです。プラスになろうがマイナスになろうが、分かっても分からなくてもであります。「人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには、走り続けなければならない」というアインシュタインの言葉があります。それがつまらなさを意味するにしても素晴らしさを意味するにしてもイエスのもとに向かって走り続けるべきなのです。

「ただ彼のみもとに」です。自己の中に本当に「訪ね行くべき人」を見い出せない者が五里霧中の海上で確実な電波をキャッチした漂流中の漁船のごとく、慰めと希望を見いだすのは「ただ彼のみもと」においてです。「幸福」は信ずるものです。見たり掴んだりするのではなく信頼の中にあるのです。


私自身、着たきり雀、無一文の時がありました。周りのワル仲間が塵のように吹き飛ばされて行き、その後始末に追われました。まさに自転車をこぎ続けるのに必死でしたが、これは私にとって避けては通れない道でした。しかし主は負えない荷を背負わせるお方ではありません。重い薪木の束をほどき、小分けにしてくださるお方です。私はそれを一歩一歩、淡々と運ぶことができました。私は主に「信頼」と「忍耐」の教育を受けさせていただきました。私は「成長」を得ました。主を信頼している限りそれは続きます。


私たちはその現実が意のままにならぬようなときしばしば焦ります。焦りは神を待つことができないときに起こってくるものです。 なぜ神を待つことができないのか、それは神の約束の言葉があまりにも私たちの思いとかけ離れているように思えるからです。

しかし神が約束をなさるとき神はご自身の可能性に立って約束をなさるのです。人間である私たちにとってそれがどんなに困難なように思われようと、神は創造の神、すなわち無から有を生ぜしめるかたです。現実はどのようであろうとも神が意志されるとき、神は神ご自身の力をもって事をなされるのです。そのことをどこまで信じて生きるところに私たち信仰者の行き方があるのではないでしょうか。


主はやさしくて勇壮なお方、その約束は果たされます。