‬[1] さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
‭マタイによる福音書‬ ‭4:1‬ ‭新共同訳

 

イエスがバプテスマのヨハネ(個人の回心を訴えた洗礼者。ヨハネは「יהוה(ヤハウェ)が深く恵む」という意味の名。)から洗礼を受けられた時、天が開けたと記されています(マタイ3:16)。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という天からの声がありました。おまえはわたしの心にかなう者であるという神の保証を得たのち、御霊によって荒野へ導かれ試みを受けられました。

イエスには悪魔の誘惑があることはわかっていましたが、これは公生涯をはじめるために経験しなければならないプロセスでした。イエスを捕えイエスの立場をおびやかそうとする悪魔との戦いにひとりで出かけられたのです。イエス様に「勇壮」を感じます。

荒野において「四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた」(4:2)とありますが、モーセも四十日断食をしました。イスラエルの民は四十年間荒野をさまよいました。エリヤは神の山に行くのに四十日の旅をしました。このように旧約聖書には、四十年、四十日ということがよく出てきます。この言葉が出てくるときは必ず試みの時なのです。しかしそれはまた、神の啓示を受ける時でもあります。
 

使徒の働き13章に「そして、約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ……」とあるように、その荒野の試みを受けたことを「はぐくみ」を受けたと記しています。「試み」はじつは「はぐくみ」のときなのです。「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、庶子であって、本当の子ではないのです。」(ヘブル12:8)とあるように、試練を受けることはその苦しみにおいて神の御心が示される時です。荒野に出ていって試みを受けることを恐れてはなりません。

 

若いころ私の友人が闇金の取り立てやをやってまして私用の外出の時は恐怖を感じると話していました。仕返しを怖がりいつも私に外出の同伴を願ってくるんです(現役ヤクザでしたので)。「虎の威を借る狐」ですね(自分も含めて)。私の母教会の牧師は「私たちは朝おきると戦いがはじまる」と話していました。まったくその通りです。本来、私たちの戦いは孤独なものです。

[3] すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 [4] イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」
マタイによる福音書‬ ‭4:3‭-‬4‬ ‭新共同訳

 


パンは言うまでもなく食べ物です。食べ物は命の糧です。生きていくために必要なものです。ここで言われるパンというのはそういう意味で私たちの命の糧、食料を代表して告げているものです。わたしたちはいつでもこれを求めています。現代人にとってはパンというよりお金と言った方がわかりやすいかもしれません。「生活するために何が必要ですか。」「やっぱりお金がないと生きていけない。」これはだれが何と言おうと正論です。これを否定することはできません。

この場面でイエスは四十日間の断食をして、おなかペコペコの状態です。断食が続いて飢えておられます。その時に「神の子ならこの石をパンに変えたらいいではないか」と誘い掛けているのです。

アダムとエバは、どんな誘惑にあって、そしてどんな誘惑に屈したのでしょうか。「その木の実を食べると、神のようになれる」という誘惑でした。人間なのに、神のようになりたいと思ったのです。神になるということは何か。助けなど要らない存在ということです。別の言い方をすれば、神など要らないという状態です。


こうしてイエスが誘惑を受けられたことはそれにつづく信仰者たちにも大きな励ましになっています。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:18)。試練のおそろしい力によって心を引き裂かれた信仰者の状態をイエスはご存知です。誘惑におちいった私たちを理解しておられます。

ちょうど誘惑に陥った子供を両親が理解するように、私たちが恥ずかしい思いでイエスを見上げることもできない時に、イエスはやさしく私たちに近づかれます。私たちの悲しみと恥をご覧になり傷ついた魂にやさしいみ手を伸ばして言われます。「わが子よ、おそれてはならない。私はあなたのすべての過ちをつぐなったのだ」と。

サタンは主イエスを誘惑して神のみこころ(神の計画、願い、目的、道)に完全に従うのをやめさせようとしました。サタンの誘惑はどれもみな満足をしたいとか偉くなりたいという人間の欲望に訴えるものでした。サタンのどの誘惑にも主イエスは負けることなく、書き記されている神のことばの権威に頼って従われたのです。キリスト者もみな同じような誘惑を受けるのでキリストの誘惑の例から多くのことを学ぶべきです。

サタンは最大の敵です。目には見えないけれども実際に存在するこの悪の力と霊的な戦いをしていることを私たちは絶えず認識していなければなりません。悪霊の力は神のご計画を変えて人生を破壊し、人々を霊的暗やみの中に閉じ込め、永遠の刑罰を受けるようにさせます。


聖霊の力に頼らず神のことばを正しく用いないなら、罪と誘惑に勝利し続けることはできません。けれども誘惑に勝つために神のことばの使い方を学ぶよい方法があります。
(1)みことばがあればサタンのどんな誘惑にも打ち勝つことができることを理解すること。
(2)みことばを心の中に入れ、絶えず思い巡らし生活の中で活用すること(読んで繰り返しその意味を考え、自分の人生の状況にどのように適用できるか考える)。
(3)できる限りみことばを覚えて心の中に満たしておくこと。
(4)誘惑を受けたときすぐに心の中に蓄えたみことばを自分と神に向けて口に出して言うこと。
(5)みことばに従うように聖霊に促されたときにはそれを受け止めて応答すること。
(6)神の助けと理解を求めて祈ること。


私たちはできるだけ損はしないように苦しいことはみな避けて通り、楽なことだけしていこうとします。そして聖書を読むとか、祈るとか、信仰のあかしをするとか、神のすすめに従って愛のわざをするとか……。そういうことをできるだけ少なくしていこうとする向上心なき生活をしていたのではそこには試練はないし、神がどんなに私たちを愛してくださっているかということもわかりません。

私たちの信仰は探究の信仰でなく、啓示の信仰だと言われています。神を尋ねていくのではなく、神から示されたものを受けとっていく信仰であります。受けとっていくのはわたし個人であって他人ではありません。他人がこう言ったから「ああそうか」というような人まかせの信仰はいかがなものでしょうか。神は今でも私たちを試みようとされますがそれを避けていたのでは自分に対する神の啓示を受けることはできません。


次のみことばは誘惑を受けたときの助けになります。
罪の力に打ち勝ち、御霊の力の中で生きるように励ますことば(ローマ6章、8章)
不道徳な行動と生活様‭式‬
主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
(ローマ13:14)
嘘をつく‭‬
互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 [10] 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
(コロサイ3:9~10)
将来への不安‭‬
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
(2テモテ1:7)
欲望‭‬
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
(2テモテ2:22)
経済的心配‭‬
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
(ピリピ4:6)

私たち自身の力にはかぎりがありますからすぐ弱ってしまいます。しかしイエスの所に行くならば、すべては解決します。


あなたは、あのかたのみ名により頼みますか。
その名は、イエス・キリスト。
神の軍勢の長として救いを与えられる。
その力はかぎりなし。