16歳、無免許でクルマを持ったある日、ワル仲間と「どこか遠乗りをしよう」という事になったことがあります、私は何故か母方の甥っ子がいる青森市の孤児院に行くことを提案しました。私の叔父さんも刑務所に何度も入っているような人で、叔父さんの子供がその孤児院でお世話になっていました。
 

孤児院を訪ねたとき、シスターに聖書を手渡されました。言葉使いの古めかしい聖書で、とてもおごそかな印象を抱きました。思えばこの頃すでに主は私をお招きくださっていたのかなと考えたりします。


2004年に受洗させていただきましたがその後も数回、刑務所とシャバを行き来する有り様でした。そして、数年前に悪仲間の喧嘩に巻き込まれてしまい、左眼を潰されて意識不明で担ぎ込まれます。アパートの隣室の方が異常に気付き通報してくださったのです。

隣人の機転がなかったら私は出血多量で死に至っていたでしょう。退院後、現場を見ると壁もジュータンもおびただしい血に染まっていました。


病院で覚せい剤の反応が出ていたので、完全に治療が済んだ時点で逮捕となりました。眼を失った失意のなかで刑務所に収容されることになってしまいます。留置場から拘置所へと法の下におかれ、何も出来ない自分に気付かされます。まさに「まな板の上の鯉」、私に出来るのはただ神に祈ることだけでした。

ならず者でも失意のどん底に至ったとき、やっと神に向き合うことが出来ました。祈りのとき、励ましを与えてくださる神を感じることができました。自分をやさしく包み、心を優しく包む風のような力を感じることに気が付いたのです。ふと、聖霊は神聖なる風のように感じるものなのだなと思いました。


「霊」というヘブル語は「ルーアハ」であり、時には「風」または「息」と訳されています。旧約聖書で「神の息」または「神からの風」というときには、神の御霊の働きを指しています。
 

神である主は地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
創世記2:7

 


聖書は旧約聖書の時代の聖霊の種々の働きを描写しています。聖霊は天地創造で積極的な役割を果たされました。創世記の2節では「神の霊が水の上を動いていた」と言い、神の創造的なことばが世界をかたちづくり、地からいのちを生み出すための備えを聖霊がしておられたと言っています。

神のことば(三位一体の第二格である主イエスは永遠のことばとされている)と神の御霊はともに天地創造では積極的に活動されました。そこで御霊はいのちの創始者とも考えられます。神がアダムを創造されたとき、神から「いのちの息」を吹き込まれたましが、それは明らかに神の御霊だったのです。聖霊は神の被造物にいのちを与えることにかかわり続けておられます。


神はいのちの根源としての「いのちの息」を吹き込まれることによって人間にいのちを与えられました。人間が造られた経過は他の全ての被造物が全部作られて、最後に私たちが造られたのでした。

なぜかと言うと私たちは非常にデリケートな存在で、空気がなくても水がなくても生きていけない。気温が高すぎても生きていけない、低すぎても生きていけない。そして愛する存在がなければ生きていけない。食べ物がなければ生きていけない。だから神様は必要なものを全部作った上で最後に丹精をこめて私たちを造られたのです

ゆえに私たちは「神の目に高価で尊い」

 

 

[4] わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。
‭イザヤ書‬ ‭43:4‬ ‭新共同訳

 


そういう存在として神は私たちを造られたのです。しかしその神よりもサタンの嘘に従ってしまった結果、人間は堕落してしまいました。もうその段階でお前達のことなんか知らないよと言われても仕方がないのに、神はそんな私たちが滅びることを喜ばれず、私たちが救われる方法をお考えになりました。

その一つの印として行われたのが、創世記3章21節に神である主はアダムとその妻のために皮の衣を作って彼らに着せられたと書かれています。彼らは自分たちの手でイチジクの葉っぱを綴り合わせて腰の覆いをしていました。

しかしイチジクの葉はそのうち朽ちます。そんなものではなくてもっと長持ちするものを神様は与えてくださいました。それは皮の衣です。これに何の意味があるのか?

皮の衣を作るためには動物が犠牲になったんです。それまでエデンの園においてアダムとエバは血というものを見たことがありませんでした。死というものについて考えたことがなかったのです。

ところが、私たちに皮の衣が与えられて嬉しいなと思う反面、そこには動物が血を流して倒れているわけです。本来罪を犯した私がこうならなければならないのに、この動物が私たちの身代わりとなって、犠牲となって、その皮が剥がれて私たちの衣となったということが分かった時、彼らは自分の犯した罪の大きさを感じたでしょう。

そしてその罪を覆うために神が犠牲を払われたということを知ることができました。そしてここにやがてこられる救い主が罪を犯した人間の身代わりとなって犠牲となるのだという予兆が描かれているのです。

そこまでしてもいいと思うほどに神は私たち人間を尊い存在だと思っておられます。


あなたは神の目に高価で尊い。神のひとり子であるイエスキリストがあなたを救うために、その命を捨てても惜しくないと思われたほどに。そのことが書かれているのが、マルコの10章45節の「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。


あなたのことを高価で尊いとおっしゃってくださっている方がいるのです。私たちは時々、自分に対して、家族、友に対して酷い言葉を投げかけてしまうかもしれない。しかし神が私に対して何とおっしゃっておられるのかということに耳を傾けるべきだと思います。

そして、あなたの語っているその言葉と神様の語る言葉がどっちが真実なのかということを。私たちは見抜かなければいけません。神の方が真実に決まってますよね。


私はヤクザな生き方、環境から抜け出せずにいました。不条理な暴力により片眼を失いました。自分のしでかしたこととはいえ数度のムショ暮らしを経験し、自分を卑下していました。

しかしこんな私にも主は「私の目にあなたは高価で尊い」と語りかけてくださるのです。

自殺、いじめが大きな問題になっております。ストレス、罪多き世です。主イエスは病を負ったもの、罪びとのために来てくださいました。

[17] イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
‭マルコによる福音書‬ ‭2:17‬ ‭新共同訳


罪を犯すのは「寂しいから」という一面があります。主イエスは「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。これよりも大切な戒めはない」と言われました。
自分の命になんか何の価値もないというふうに思い込み、サタンの嘘に騙されている人々に対して「あなたは高価で尊い」と今も語りかけてくださっています。