昨年、9月2日に愛犬ハル(7歳のチワワ♂)が空へと旅立ちました。昨年3月にもらいに受けてきたばかりでした。環境がかわり気候の違う八戸での猛暑に耐えられなかったのかと思っています。続く11月に同じくチワワ18歳のミルが旅たちました。先日、ハルのパートナーだったハナ(8歳のシーズー♀)をもらい受けてこれたのが救いであります。

 

ハル(春)にハナ(花)をミル(見る)。意図したわけではありません💦


 

[22] 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 [23] しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 

マルコによる福音書‬ ‭5:22‭-‬23‬ ‭新共同訳‬

 

会堂長ヤイロという人がイエス様のところにきて、愛娘の命を救ってくれと嘆願しました。この願いを聞いて、イエス様がヤイロの家に向かうことになると、物見高い群衆がイエス様に押し迫るようについて来ました。ところがその中に12年間も長血に苦しみ抜いた婦人がまことの救いを求めてまぎれていたのです。

 

彼女はヤイロのように正面切って「わたしを救ってください」という勇気がありませんでした。ただ後ろからこっそりとついていってイエス様の背中を見ながら「我を救い給え」と念じていたのです。しかし、そのうちこの婦人は彼女なりの一つの信仰の冒険をします。イエス様の正面切って「救ってください」とは言えないけれども、もっと側によってイエス様の着物にそっと触れてみよう、そうすればイエス様のお力がいただけるかもしれないと考えたのです。勇気を出して彼女はそれを実行しました。するとイエス様の着物に触れたその瞬間、彼女は自分の病が癒されたことを全身で感じ取ったのでした。

 

その時です。急にあたりががやがやと騒がしくなります。イエス様が「今、わたしの着物に触ったのはだれか」と探し始めました。「こんなに大勢の人が押し迫っているのに、誰が触ったかと言われるのですか」と少々不満げに語る弟子たちの声が、彼女にも聞こえてきました。

 

長血の婦人のこれまでの苦しみはどんなに掻い摘んで話しても、一言や二言で語り尽くせるものではありません。それをイエス様はじっと聞いてくださったのでした。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救いました。これからはもう病気にならないで元気に暮らしてください」という優しい言葉をかけてくださったのでした。


 

そばでイライラしているのは会堂長ヤイロです。彼は、一刻も早くイエス様に来ていただきたいのに、こんなところで足止めされて気が気でならないのです。しかし、イエス様はそんな弟子たちの不満や、会堂長の苛立ちにも構わず自分に触れた者を捜し出すまでそこを動かれる様子はありませんでした。

 

このときのヤイロの反応について、聖書は何も語っておりません。けれども父親としてそれがどれほど悲観にくれることかが容易に想像することができます。イエス様はどうなさったでしょうか。36節、イエスはその話をそばで聞き会堂長に言われた。「恐れないでただ信じていなさい。」新改訳聖書はそばで聞きと訳しています。新共同訳もほとんど同じですが、口語訳は「聞き流して」と訳しています。そして英語の中でもNew International Versionでは彼らの言ったことを「無視して」という風に訳されています。

 

聞き流せと言うのです。ここで言われてることは情報の取捨選択です。情報は山とあるけど、どの情報を受け取りどの情報が聞き流すのか?何を信じるのか?誰を信じるのか?私を信じていなさいとイエス様はおっしゃられたのです。


 

ヤイロはふたつの情報を聞きました。家からやってきた死者たちからは娘さん亡くなりましたからイエス様を連れて行ってもしょうがありません。でもイエス様は恐れないで信じていなさい。さあ、どちらの言葉を私は信じるべきかということが問われました。しかも今、目の前でこの女性の癒しも見ました。その時にひとつ目のハードルがあったのです。

 

このハードルを乗り越えるかどうか?

乗り越えました。彼はイエス様を連れて家に向かったのです。


 

[38] 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 [39] 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」

マルコによる福音書‬ ‭5:38‭-‬39‬ ‭新共同訳‬

 

これがヤイロに対する第2のハードルです。イエス様は「その子は死んだのではありません。眠っているのです。」と言い、人々は「あの娘が死んでしまった 」と言っています。どちらを信じますか?。第2のハードルがヤイロの前に立ちふさがりました。ここでもヤイロの信仰が問われたわけです。ヤイロはここでもイエス様の言葉を信じました。


 

[40] 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 [41] そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 

マルコによる福音書‬ ‭5:40‭-‬41‬ ‭新共同訳‬

 

イエス様のお弟子たちは12人いましたが、そう中でもペテロとヨハネとヤコブの 3 人だけを連れていきました。その場面は他に2回あります。変貌の山に連れて行ったのはこの3人、そしてゲツセマネの園で祈った時に、最もイエス様の近くまで呼び寄せたのはこの3人です。

 

なぜか41節でアラム語が出てきます。当時の会話はアラム語で話されていたのですが、他の場面はちゃんとギリシャ語に訳されて書かれそれが日本語に訳されて今私たちの手元にあるのに、なぜここだけアラム語で残されているのでしょうか?

 

それはおそらくその部屋に入っていったペテロが聞いたその耳にイエス様の権威のあるこの言葉がものすごくインパクトを持って耳に残った。ペテロはマルコにその時の光景を語って、マルコはその音をそのまま残しておきたいと思ったのかもしれません。


 

このようにイエス様の当時の語られたままの発音が残された他の例としてすぐに思いだされるのは、十字架上での最期のときの叫び、「エリ、エリ、ラマ サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!)があります。これは厳密にはアラム語とヘブル語の混在した形ですが、この言葉は、詩編22篇の冒頭にそのままのかたちですでに旧約聖書にみられます。

 

しかしこの会堂長の娘の件にはイエスの死のときの叫びほどの深刻さはありません。「娘よ、起きなさい!」これは毎日の家庭で日常的に言われるようなごく普通の言葉にも思えます。しかし、そのような何も重要性のないようなひと言がもっている重要な意味を、このときイエス様と共にいたと記されている3人の弟子たちは鋭く感じ取ったのです。

 

その重要性とは何か。それは、娘よ、といわれてはいる箇所が実は、自分たち、さらには人間みんなに向かって言われているのであり、起き上がれ!というひと言も、万人に向けて言われている重要な意味を持っていると3人の弟子たちは直感したのです。

 

起き上がる(立ち上がる)という日常的な言葉のなかに、人はみな、起き上がっていない状態にある、立ち上がれない弱さを深くその魂に持っているということが含まれています。


 

会葬者たちは「イエスがその子は死んだのではありません。眠っているのです。」と言われた時あざ笑いました。少女は死んでいましたがその状態は一時的であり、回復することを知らせるためにイエス様は眠りということをたとえを用いられたのです。

 

イエス様は希望と信頼を持ち続けるという重要な教訓を教えるため、群衆の侮辱を許容されました。今日、世界中でキリストの主張を笑う傾向が多々あります。イエス様への信仰や永遠の命への希望を表すことで馬鹿にされる時、不信者たちは神の観点からものごとを見ていないことを覚えておくべきです。

 

ヤイロが娘の死を恐れ、人々が騒ぐ間も、イエス様の目は神へと向けられています。だから、長血の婦人の出来事によってヤイロの家への到着が遅れ、娘が死ぬことになってもイエス様には不安がありませんでした。父なる神の勝利を知っているからです。神に信頼しているからです。イエス様は、娘の生死という現象に捕らわれている者の目を神へと向けさせます。奇跡には神が働いています。その働きを見つめるなら神がどういう方であるかを知ることができます。イエス様は奇跡を通して神を知ることをしきりに願っています。


 

長血の婦人もヤイロも希望へのハードルを勇気をもって乗り越えたのです。