この世界はどうやってできたのか?

 

聖書は「茫漠として何もない」所に神が臨まれ、みことばによって一切を創造されたと言います。そのみわざは人間の住める環境の確立に始まり、人の創造をもってクライマックスを迎えます。「神はそれを見て良しとされた」と淡々と繰り返されてきた解説も、人の創造を含む六日目には「見よ。それは非常に良かった」と声の調子をあげます。神の創造のみわざは美しく完璧でした。

 

自ら満ち足りておられる神は、世界を造らなければならない必然に迫られていたわけではありません。しかし、神は愛において「わたしたちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと…あらかじめ定めておられ」世界を創造されたのです。神はご自分との交わりの中で生きる者、人間を持とうとして人間の創造をクライマックスとした世界を創造されました。

 

 

天地創造の目的と目標

 

神は世界を創造するに当たって特別な理由を持っておられました。

 

(1) 神はご自分の栄光と美しさ、尊厳、力を目に見えるかたちで現すために天と地を創造されました。 ダビデは、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1)と言っています。創造された宇宙の全体を調べるなら(宇宙の巨大な広がりや各部分から自然の美しさと秩序に至るまで)、私たちは創造者である神を恐れ驚かずにはいられません

 

(2) 神は栄光と名誉を受けるために天と地とを創造されました。自然界の構成分子はみな神の創造の力を示しています。太陽と月、岩と木々、雨と雪、川と流れ、丘と山、動物と鳥類は、それらを創造された神に対してその栄誉をたたえる存在です。けれども神はそれらのものよりも人間から栄光と賛美を受けることを望み期待しておられるのです。

 

(3) 神は人類に対するご自分の目的と目標を成就する場所として地を創造されました。神は愛情に満ちた人格的関係を永遠に持つことができるように、アダムとエバをご自分のかたちに似せて創造されました。人間を三位一体、つまり三面性(肉体とたましいと霊)を持つ存在として設計されたのです。ただし神が三位一体であること(父、子、聖霊が本質において一つの神であること)は新約聖書まで明らかにされません。


 

神は自分のかたちに人を創造された(創世記1:27)」。この像は第1に自然の像で、神の不死性、霊的存在、意志の自由、さまざまな感情をイメージしたものです。第2に海の魚、地上のすべてを支配する政治的な像です。第3に人が創造され「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた」聖い生活を送る道徳的な像でありました。

 

神は人間との親密な関係を持ち続けることを望まれました。そこで罪の結果(神に逆らって選択したことの結果)から人類を贖う(神との正しい関係に回復する、または買い戻す)ために救い主を送るという約束をされました。このようにして、神は人々が神との交わりを楽しみ神を尊び、最初に計画されたように正しく聖い生活を行うようにと願われたのです。

 

神の天地創造の究極の目的、または最終的成就は黙示録に記録されています。そこで使徒ヨハネは歴史の終りを「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて」(黙示録21:3)と描写しています。


 

神様が天地の全てをお造りになった、その被造物の中で、直接語りかけておられるのは人間だけです。このこととの関連で注目する必要があるのは神様は人間に、「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」と語りかけられました。そこに、「あなたたち」という言葉が二度出て来ます。神様は人間に「あなた」と語りかけておられるのです。

 

人間だけが神様にとって「あなた」と呼びかけ得る存在として造られています。それは逆に言えば、私たち人間だけが神様に「あなた」と呼びかけることができる者として造られているということです。ここに人間を人間たらしめているもの、他の動物たちとの違いがあるのです。人間だけが、神様との間に「あなたと私」という関係を持つことができます。つまり神様を信じ、神様に祈り、神様との交わりに生きることができます。それは同時に、人間だけが、神様を信じないで、神様に背き、交わりを断ち切って生きることもできる、ということでもあるのです。

 

背く者ではなく従う者であり続けたいと思います。

 

わたしたちは「人間らしい」という言葉を使うが、本当の意味においての「人間らしい」とは、「神に似た人間」らしいことであり、「神に創られた者としての謙遜さと、神に似た愛と知恵を持って自然を管理する使命感」を持つことではないだろうか。自然の管理者である人間は山野の緑をそこなってはならなかった。川も海も清く保たなければならなかった。空気は清澄のままにおくべきだった。だが、人間はその本来の使命を忘れ、自己中心に生きた結果、公害に悩まされ、地上を荒廃させてしまった。せっかく与えられた神からの知恵も、自由意志も、限りない欲望のために用いるようになったとき、自分の首を絞める結果を招いてしまったわけである。神に背いては、人間の知恵はもはや使命を果し得ない。

三浦綾子