パスカルの言葉を引用したのは、この人物は非常にカテゴライズし難いということでも有名だからです。
ウィキペディアによれば...
ブレーズ・パスカルは、フランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家。早熟の天才で、その才能は多方面に及ぶため、カテゴリー分類するのが困難な人間である。「人間は考える葦である」という『パンセ』の中の言葉によって広く知られている。
では、上記の文章にフレディを当てはめてみましょう。
フレディ・マーキュリー、イギリスの音楽家、作曲家、作詞家、哲学者、思想家、宗教家。パフォーマンスの天才で、その才能は多方面に及ぶため、カテゴリー分類するのが困難な人間である。「流浪の民の狂詩曲」という曲では、楽曲の奇抜さだけでなく、哲学的な詩表現で彼の人となりは広く知られている。
違和感あります?(笑)
フレディも考える葦であった人物です。つまり、生活のためだけに音楽家になったわけではありません。お金のためならば、死が近づいてもなお作品作りをした事実が理解できなくなります。
歌詞という発表形態を使って、哲学、思想、宗教観を後世の人々に伝えた方のではないでしょうか?
パスカルの「人間は考える葦である」は、逆説的に考えれば「考えない人間は、葦と同じである」ということでしょう。
黙っていても、人間は優れた生き物ではなく、考える、つまり常に思考しなければ、価値のない生き物だと言っていると思います。
「人間は考えてるから人間なんだ!」と反論があるかもしれません。しかし、考えるとは「己はどんな原理原則によって行動しているのか?」や「自分が常識と思っていることを疑って考える行為」ではないでしょうか?
たとえば、正月に神社に初詣に行く。その時、拍手を打つわけですが、「2拝2拍手」するのはなぜか?と考えていますか?
みんながするから、する。ではないでしょうか?
こうした拝むという行為も原理原則があってしているのです。しかし、長い年月を経て習慣になり、何も考えないでしていることは、考えていない証拠です。
ちなみに、出雲大社と大分にある宇佐八幡は、「4拝4拍手」が通例です。
どうしてこういった行為で拝むのか?と考えれば、あれ?「2拝2拍手」が当たり前じゃないんだ!ということに気がつきます。
このことが大事なのです。
フレディを音楽家というカテゴリーでとらえ、それが当たり前として、考えることをしなければ、彼の本当の心が見えなくなってしまいます。
ということは、誰にでも哲学、思想、宗教観があり、それが行動の原理原則になっていることを学び、自分の哲学、思想、宗教観を自覚することが物事に振り回されないで、生きることになると思います。
フレディの生涯をみると、まったくブレていません。一貫した考え方によって一生が貫かれています。
彼の宗教観からジャケットデザインや衣装の「黒と白」が構成されるように、哲学や思想が珠玉のように曲の中にちりばめられています。
それを学び取ることによって、我々は学び、自分の人生に役立てることこそ、クイーンの音楽に出会えた喜びというものでしょう。
キリスト教に出会うも、仏教に出会うも、同じことです。
では、次回は楽曲について掘り下げ、もう少しフレディを始めとするクイーンの哲学に触れてみたいと思います。
ウィキペディアによれば...
ブレーズ・パスカルは、フランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家。早熟の天才で、その才能は多方面に及ぶため、カテゴリー分類するのが困難な人間である。「人間は考える葦である」という『パンセ』の中の言葉によって広く知られている。
では、上記の文章にフレディを当てはめてみましょう。
フレディ・マーキュリー、イギリスの音楽家、作曲家、作詞家、哲学者、思想家、宗教家。パフォーマンスの天才で、その才能は多方面に及ぶため、カテゴリー分類するのが困難な人間である。「流浪の民の狂詩曲」という曲では、楽曲の奇抜さだけでなく、哲学的な詩表現で彼の人となりは広く知られている。
違和感あります?(笑)
フレディも考える葦であった人物です。つまり、生活のためだけに音楽家になったわけではありません。お金のためならば、死が近づいてもなお作品作りをした事実が理解できなくなります。
歌詞という発表形態を使って、哲学、思想、宗教観を後世の人々に伝えた方のではないでしょうか?
パスカルの「人間は考える葦である」は、逆説的に考えれば「考えない人間は、葦と同じである」ということでしょう。
黙っていても、人間は優れた生き物ではなく、考える、つまり常に思考しなければ、価値のない生き物だと言っていると思います。
「人間は考えてるから人間なんだ!」と反論があるかもしれません。しかし、考えるとは「己はどんな原理原則によって行動しているのか?」や「自分が常識と思っていることを疑って考える行為」ではないでしょうか?
たとえば、正月に神社に初詣に行く。その時、拍手を打つわけですが、「2拝2拍手」するのはなぜか?と考えていますか?
みんながするから、する。ではないでしょうか?
こうした拝むという行為も原理原則があってしているのです。しかし、長い年月を経て習慣になり、何も考えないでしていることは、考えていない証拠です。
ちなみに、出雲大社と大分にある宇佐八幡は、「4拝4拍手」が通例です。
どうしてこういった行為で拝むのか?と考えれば、あれ?「2拝2拍手」が当たり前じゃないんだ!ということに気がつきます。
このことが大事なのです。
フレディを音楽家というカテゴリーでとらえ、それが当たり前として、考えることをしなければ、彼の本当の心が見えなくなってしまいます。
ということは、誰にでも哲学、思想、宗教観があり、それが行動の原理原則になっていることを学び、自分の哲学、思想、宗教観を自覚することが物事に振り回されないで、生きることになると思います。
フレディの生涯をみると、まったくブレていません。一貫した考え方によって一生が貫かれています。
彼の宗教観からジャケットデザインや衣装の「黒と白」が構成されるように、哲学や思想が珠玉のように曲の中にちりばめられています。
それを学び取ることによって、我々は学び、自分の人生に役立てることこそ、クイーンの音楽に出会えた喜びというものでしょう。
キリスト教に出会うも、仏教に出会うも、同じことです。
では、次回は楽曲について掘り下げ、もう少しフレディを始めとするクイーンの哲学に触れてみたいと思います。