(超訳)
いや、もう、この世に生まれたからには、
かなえたい願いって山ほどあるんだろうな。
天皇については恐れ多い。
皇族の端の端まで、神の血族なんだから尊い。
第一級の大臣らも言うまでもなくもちろんのこと。
官僚、貴族でも「舎人(今でいう宮内庁高官、警護役員など)」
などの職を賜る身分の人も立派なもんだ。
その子、孫までは、どっかに落ちぶれたとしても、
なお上品さが残ってたりするだろう。
それより下の階級(えらそげな官僚?)の人は、
自分らの階級に応じた職につけて、かつ時の運にあい、
それだけで、したり顔で「オレってスゲー」とか思ってるんだから、
アホみたいよね。
出家者ほど羨ましくないものはないよ。
「ひとには木クズみたいに思われてるよ」って
清少納言が書いたけど、マジでそのとおり。
(世俗の官僚と同じように)権力争いやらイザコザしても、
ぼんさんとしては到底、素晴らしいとは言えないよね。
僧賀聖(えらいお坊さんの名前)が言ったとかいうような、
世間的な名誉功名に拘り「欲」「迷」に仏心を苦しめ、
仏のみ教えに違反しているように思う。
そうなると、いっそ振り切った日々を送る世捨て人が、
なかなか理想的な道じゃないのか?と思うわけだ。
(原文)
いでや、この世に生れては、願はしかるべきことこそ多かめれ。
帝の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。
一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人などたまはる際は、ゆゆしと見ゆ。
その子、孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつつ、時に逢ひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口惜し。
法師ばかり羨しからぬものはあらじ。
「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、
げにさることぞかし。
勢猛に、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず。
増賀聖のいひけんやうに、名聞くるしく、佛の御教に違ふらむとぞ覚ゆる。
ひたふるの世すて人は、なかなかあらまほしき方もありなん。
(解説)
そもそもが官僚世界で生きていたので、
貴族サロンとの交わりが多かった兼好法師。
有名な序文の次から始まる第一段が、ここです。
まず、帝は尊い、そしてその枝葉も同じく尊い。
その周りの職も立派。
ただ、それ以外の身分制度の中で官職についてるヤツら…
ことにそれで、ふんぞり返ってるアイツら、マジクソ。
という、愚痴から始まります。
さらに、その世界から飛び出したくて出家したのに、
いざ出家してもボンさんワールドも結果一緒。
権力争い、意見の相違、既得権益の保守…
なんだよ!一緒やないか!仏の教えはどこ行った!
という怒りが「違ふらむとぞ覚ゆる」に表現されいると思います。
他の段でも、だいたい「くちおし」という、
まあ、今でいう「遺憾の意」くらいで収まっているところを、
ここでは「ちがうんとちゃうんか」と言っているのです。
ちなみに、この解釈は自分の意見がかなり憑依してあるので、
間違ってる可能性が大です。可能性大ですが、私が兼好法師に何度も入れ込んじゃった理由がここにあるので、敢えて、この解釈を押したいと思います。