誰にでも思い出したくない事の一つや二つはある。
四、五年前、母が倒れた事、そして母が死ぬまでに送った闘病生活、その全てを今はもう思い出したくもない。
思い出したくはなかったが、母が二年前に地上から完全に姿を消した時、自分の中で何かが変わった。
今年に入って父が入院してからは、その変化は更に顕著になっていった。
やたらと細かい数字に反応するようになり、どんな些細な金額の領収書も集めてなんとか経費としておとす事に頭を悩ませる。母が入院する以前であったら想像すらしなかった現実。
何故こんな事になってしまったのか?
ボクの家族は、ボクと姉と両親、そして祖父母の六人家族。そして家は小さな地方都市の小さなスーパーマーケットを経営していた。
屋号は【ブレーブス】。
どういうつもりでそんな名を付けたのかは分からないが、母は【ブレーブス】の看板をいつも嬉しそうに見ていた事だけは子供ながらに覚えていた。
いつもは父と母が店に立てばそれで事足りる小さな小さなお店。それでも年末になれば町中の人がごった返し家族総出で店を手伝う小さな町の小さなスーパー。そして元旦、除夜の鐘を聞きながら皆で年越し蕎麦を食べるのが毎年恒例の行事となっていた。
でも、ボクだけは家族に馴染めなかった。
家族だけではない、学校でも社会でもいつも独りが好きな、思えば誰とも馴染む事の出来ない人間であった。
一度、中学生の頃、この何の面白みも無い町を飛び出そうと、家からいくばくかのお金を盗み東京行きの深夜バスに乗り込んだ。
なんだか無性にこの町が疎ましくなり、誰も知らない場所でたった一人になりたかったが、この一人ぼっちの逃避行は洒落にも何もならない最低の形で幕を引く事となる。
バスの運賃を払った後、三万ほどの金が残った。僅かではあるが、ボクの手元にある全財産を万一の為に履いている靴下の中にしまい込んだのだが、東京に到着しそうな時に靴下の中を確かめてみれば、三万円という子供には多過ぎる大金がきれいさっぱり無くなっている。
一瞬、何が起きたか自分でも理解出来ないぐらいのショック、しかしバスは容赦なく東京に到着した。
あれ程望んだ”町”と”家”からの脱出は、まるでどうしようもないぐらいな間抜けさでジ・エンド。
東京に到着しながら降りようともせずにもじもじする中学生を不信に思ったバスの運転手が警察へ連絡をし、敢え無く御用。
待っていたのは父のゲンコツであったが、ボクは東京から家へと連れ戻される最中、誰が悪いわけでもない己自身のの愚かさを当初は散々自嘲していたが、次第に別の事に原因を求めていた。
これは全てあらかじめ決まっていた事であり、全ては『彼女』が仕組んだんじゃないのか、と・・・・、
あの時、『彼女』を裏切ったボクは、もう”脱出”する事は許されないんじゃないのか、と・・・・、
そういう確信をいつの間にか持ち始めていた。
このこっぴどい失態をした後、ボクは二度と脱出しようとはしなかった。そして『彼女』の記憶を完全に封印をした。自分の記憶に絶対外れない錠をかけ、完璧に忘れ去ろうとしたし、事実、その後『彼女』を思い出す事は無くなっていった。
続く