ここに時折、夫との釣行記を書いてる私ですが、残念な事に、だんだんそれらの記憶が、おぼろになっていることに気がつきます、
断片的には覚えているのだけれど、、、。

夫がいた頃は、
共有する思い出をよく二人で話題にしていました。
 
「あの時は、こうだったね」
「いや、それは違うこうだったよ」

なんて具合に、記憶違いを互いに自然と訂正できたりしてた
相手を失うと言うことは、私ひとりだけの記憶となってしまい、なんだかそれはとても心もとないものです。


忘れないうちに、書いておきたいと思いました。
できるだけつまびやかに、
そんな大袈裟な話でもないのですが、、、、。

よろしければ、おつき合い下さい、少し長くなります。




あの時の光景を夫は、どんな風に感じていたのだろう、 

私と彼は価値観も感性も
似た者同士の二人だったから、
きっと夫も私と同じ気持ちだったと思う。

釣りをするようになって、
季節の変わりめ、昼と夜の境に、
いろんなもの達が連鎖的に動く
不思議を感じました。

それは、自然の摂理か何なのか

そんな景色を垣間見る度に、
誰に教わったでもないのに、
小さなもの達のなす数々の仕業をただ、ただ凄いな、と思った。
 
もしかしたら人様の知識など
本当は大した事ではないかもしれない、、、。


私と夫がまだ若い30代の頃の話しです。
朝から夕方4時頃までいつもの川で楽しみ、さあ、そろそろ帰ろうか?と、なった時


「ちょっと寄り道していかない?支笏湖に行くか?」と夫が言ったのです。
 
  
本当に体力がありました。
私、自分で言うのもなんですが、
崖のような斜面をロープ一本で登ったりしてて、その身体的能力もなかなか、大したものではなかったか?と自負しています。

今は見る影もありません 
そんなロープ掴んだら、今は秒で手から離れ川底に落ちるだけでしょう😅


若いって素晴らしい✨だったあの頃、いいだけ渓流を歩き回っても、
その余力で支笏湖をちょっと攻めて帰ろうか?という気力があったのです。

あの日、支笏湖への道すがら
通った街では、
町内会的なイベントを準備する人々が広場に集まっていて、
そんなことも、ぼちぼちと行われる陽気だった。
時期的に言うと夏至のあたりだったのかな?と思われます。
年代的には、スピッツ、アルバム「フェイクファー」の頃です。

支笏湖に着くと私達の他に、
若い男性が一人、テトラに座り所在なさげにルアーを投げていました。
その青年は(って私達もせーねん世代、その当時はね)ウェーダーなどは身につけておらず、普段着でレジャーな感じの気軽さでした、彼女は車で待っている様子。

私達は、膝上あたりまで立ち込みロッドを振る、
私達が入ったポイント後方には ちょっとしたテトラの群れがありました。
うっかり気を許すと
たちまちフライを奪われてしまう、という、ちょっと難しい場所だった。

距離を取り立ち込んだつもりでも、フライラインは以外と伸びるので、、、
そんな事にも注意を払いながら、
各々、のんびりと、さあーてと、と、
釣り始めました。

初夏のよく晴れた一日が、終わろうとしている、湖面は波もなく凪いだ穏やかな夕方。


魚の反応はイマイチだった、その時点での釣果は夫が釣り上げた数匹だけ、


夕暮れが近づいてきたその時、
それは突然始まったのです。

最初、観光客が湖に石でも放り込んだのかと思った。

ポチャ。。。。。ポチャ。。。、
バシャバシャ!!






「はっ」として、その音がする方を見ると、しっかり姿を現した魚のライズだった。 

やがてそれは、あちらこちらと始まり、その間隔は初め、ゆったりとしたものだったのですが、だんだんと熱をおび、やがて遠くでも、近くでも右も左も、ついには私達の足元にまでも及んできて、
あれよあれよと言う間に見渡す限りで魚が跳ね始め
やがてバケツをひっくり返したような激しい騒々しさに変わっていった。

あっと言う間の出来事だった。
狂喜乱舞とは、まさしくこのことだと思った。

何気に伺うと、先ほどのルアー青年に、さほど当たりはないようでした。


水中から湧き起こる、この無数のモンカゲロウたち
魚は今それしか目に入っていない、きっと湖の中などは見ては、いないのだろう、

魚は今、上だけを見ている。





《続く》