※注意 この記事には映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』についてのネタバレが含まれます。

 

世間ではアニメのシーンの完コピや映画一作目との自己同一性に対するスタンスの逆転について語られることが多い本作品だが、それに加えてこの映画はある種のメタフィクションの要素も内包している。

 

本作品には公開前から、原作では草薙素子なる亜細亜人名のキャラクターが白人化されているとする意見とそれに反論する(特に押井版の)キャラクターの容姿は元々白人として描かれているから問題ないという意見の対立、いわゆるホワイトウォッシング論争がある。

 

これら一見相反する両者の意見には実は共通点がある。それは両者ともに可視化されたデータ≒容姿・名前から人種を決めつけているという点である。実はこの構造自体が映画の設定に取り入れられている

 

本作品世界では体の全てのパーツを人工物で代替することが可能である。いかなる身体も自由自在に選択可能であり、また電脳化後は記憶すらも人工的に書き換え可能であるというディストピアの側面も描かれる。

 

筆者は考える。2017年現在の世界においては、人種は遺伝的なデータに基づいて決定されるというコンセンサスが主流であるが、人間が生身の体≒不可避のデータから解放された世界においては人種というカテゴライジングはかつての不可避性を失い、現在のファッションと同じアイデンティティの発露の一つとなると。

 

本人が意識的、無意識的にアイデンティティを発露した場合にのみ、発露されたデータに基づいてアイデンティティは推測されうる。これが先述多くの人が「可視化されたデータ≒容姿・名前から人種を決めつけている」理由の一つである。これには前提条件があり、本作品ではその前提が意図的に崩されている

 

本作品中では主人公の少佐は元々亜細亜人の体と草薙素子という名前を持つ人間であったが、最強のサイボーグを創造するための人体実験によってかつての記憶を失い、テロによって体を失ったという偽の記憶と共に白人の体とミラ・キリアンという名前を持つサイボーグに作り替えられ、少佐自身が可視化されたデータ≒容姿・名前から自身のアイデンティティを決めつけている。少佐はホワイトウォッシング論争を争う視聴者そのものである。

 

最終的には原作の「人はただ記憶によって個人たり得る」というテーマを真正面からひっくり返し、「人はこれから何をするかによって個人たり得る」という結論に達する。

 

容姿・名前から人種を決定する事は、容姿・名前からアイデンティティを決定する事であり、データからアイデンティティを決定する事になる。

 

この映画はそうじゃないんだと言っている。つまり容姿・名前から人種を決定する事自体を否定している。

 

本題に立ち返ると、漫画やアニメのキャラに対し、名前からアジア人と断定しそれが映画の中で白人化されているという意見と、容姿から白人と断定し元々白人として描かれているから問題ないという意見の両方を否定している

 

この映画がホワイトウォッシング論者、及びその反論者に対して投じた一石とはすなわち以下である。

 

そのキャラクターが何者たるかは名前容姿によって決定されるのではない。ただそのキャラクターが何をするかによってそのキャラクターはそのキャラクターたり得るのだ。

 

予算獲得装置としてスカーレット・ジョハンソンをキャスティングし、ビッグバジェットによる映像美を実現しつつ、ホワイトウォッシング論争のメタ構造を映画に取り入れたのが誰のアイディアかは分からないが、世間では酷評されているらしいこのunsungな力作に、筆者は密やかなるスタンディングオベーションを送りたい。

 

 

4/16 追記

そもそも亜細亜人という枠組みで仕事が奪われると騒ぐこと自体が自己矛盾である。もし名前にこだわるならば草薙素子は日本人であって、中国人でもなければ韓国人でもない。そこに亜細亜人という枠組みで中国人や韓国人が仕事を取られたと騒ぐことは人種差別の逆利用であり、笑止千万である。仮に本件で仕事を取られたと騒ぐ資格があるとしたらそれは日本人、あるいは日系人だけである。そしてその発想自体が人種差別に基づいている。ホワイトウォッシング論者は自身がレイシストである事を自覚せよ。

 

追々記

主人公を白人に改造し美しいと呼ぶことが白人賛美だという意見がある。それを悪役のハンカ・ロボティクスにやらせているところがクリエイターの意思表示である。