五木ひろしにどうしてもレコード大賞を獲らせたかった女性、山口洋子の後編です。

 レコ大2か月前の新曲発表、常識では考え難い暴挙とも思える作戦に出た五木サイド。どうしてそんなふうに勝負に出たのでしょうか?

 

 

 それは、前年の歌謡大賞とレコード大賞の結果が大きく影響しています。

 1971年は、両方とも、尾崎紀世彦「また逢う日まで」でしたが、1972年は、歌謡大賞が「瀬戸の花嫁」で、レコ大は「喝采」だったのです。しかも「喝采」は、9月10日発売で10月頃から評判になり、あれよあれよという間に大賞を獲ってしまったのです。「瀬戸の花嫁」は4月発売で先行逃げ切りを図り、失敗しました。そして、「危険なふたり」も4月発売なのです。

 

 

 それにしても、柳の下に二匹目のどじょうはいるのか?

 これは、一種の賭けだったかもしれません。

 

 この辺りが銀座のバーを経営し数々の修羅場をくぐり抜けてきた山口洋子の真骨頂と言えます。レコード大賞審査員の「歌謡大賞で選んだ曲を後付けで選びたくない」という心理を読んでいたのかもしれません。

 そして、彼女が用意した勝負曲は、「夜空」。抒情的で日本人の心に切々と訴え掛ける「ふるさと」に対し、リズムがあってパンチのある歌にチェンジしたのです。

 レコードでは、サビの部分の「あぁ、あきらめた、恋だから」が女性コーラスだけとなっていたのですが、ステージでは五木がコーラスに負けない強い声で歌いました。

 そして、さらに、後に五木ひろしの代名詞ともなった、右手を握りしめて縦にふる、あの振りを取り入れます。

 今思うと、あの振りは、レコ大を導き寄せる「打ち出の小槌」のようにも、また、「これでもか、これでもか」とヒットを呼び込もうとしているようにも見えます。

 

 

 かくして、1973年の大晦日。高橋圭三・森光子の司会で始まりました。ただ、テレビを観ている視聴者にとっては(私も含め)、興覚めする展開でした。というのは、沢田研二の「危険なふたり」が大衆賞に選ばれていたからです。もちろん、大衆賞もレコード大賞を獲れないわけでありません。でも、通常は、歌唱賞受賞者の中から、最優秀歌唱賞とレコード大賞が選ばれるという流れだったからです。

 梯子をはずされた格好の可哀そうなジュリー。歌唱賞の面々は、五木以外に、由紀さおり、西城秀樹、八代亜紀、チェリッシュです。由紀さおりが最優秀歌唱賞を獲得した時点で、大賞は五木ひろしだと誰もが確信したに違いありません。

 ともあれ、山口洋子の思い描いたとおりの逆転シナリオで事は運び、大願成就となったわけです。めでたし、めでたし。

 

 

 

 

 

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