これまでもこのタイトルで何度もブログを

書こうとしたのだが、そのたびに挫折して

結局、今夜が何度目かのトライになる。

 

少し大きな仕事が入ってきたのと同時に

姉から母がいよいよ危ないかもしれない、

という連絡が入り、その翌日、大阪の

施設にまで様子をみにいったのだった。

 

母は、なんとか車いすには座っていたのだが、

飲み込みがうまくできなくなってしまい

口から食事をするのが難しい状態だった。

 

そうなると、肺炎になりやすくなって

突然、亡くなることが多くなる。

 

そういう知識はあったのだが、飲み込みが

できなくなると、

窒息してしまうリスクが高くなるのは

知らなかった.....。

 

言葉も話せなくなっていた.....。

いや、話そうとするのだが、

うまく言葉にできなくなっていた、といった

ほうが正しい。

 

10年前、倒れて回復期にあった母は

猛獣そのもので、アセアセアセアセアセアセ

病室で静かに寝る、という当たり前のことが

できない人だった。

 

朝起きると、夜、疲れて寝てしまうまで

ずっと叫びながらさわぐので、病室に

おいておけなかった....

しかもベッドからなんども脱走をはかるので

よく落ちた.....アセアセ

 

夕方、私は毎日見舞いにいったのだが、

いつも車いすの母だけ看護師さんたちの

詰め所にいた.....

そこでもなんだかわけのわからないことで

怒鳴っていたので、まったく手に負えない人

だったのだが、病室においておくと、

相部屋の人の病気が悪化するので、

詰め所においておくしかなかったのだ。。。。

 

看護師さんが私の顔をみると、ほっとされていたのを

よく覚えている。

 

その時だけ、母は少し静かになったからだ。。。。

でも、病院の食事ではものたりなくて、

お腹がすいて、小さな子供のように

「おなかすいた~」といっては子供のように

泣いた.....大声で......アセアセアセアセアセアセ

(で、こっそりもっていった”おでん”を

食べさせたりもした....)

 

毎回毎回、私が帰る時も大変で、

いつも面会時間の8時が過ぎてしまうこともあり、

玄関の管理人さんに嫌味を言われたことも結構あった。

 

「帰る」というとさわぐので、なかなか帰れない、

でも、来ないともっとさわぐのもわかっていた....

 

当時、私はむちゃくちゃ忙しくて、

どうやって仕事をして、毎日病院にいっていたのか

思い出せない....。

毎日がぐちゃぐちゃの状態で、記憶がないほど

忙しかった......。

 

とにかく、今の母の状態では、遅かれ早かれ

胃瘻をするかどうか、を最終的に

決めなければならない。

そうすれば、少しはまだ生きられるようだ....。

 

これについては、姉とも話し合ったのだが、

もう自然に......

 

という結論にいたった。

 

つまり、胃瘻は選択しないことにした。

自分のこととして考えても、

胃瘻だけは嫌だ。

 

今から、娘にも胃瘻は無用だと言っているほどだから。

 

昔、私たちが小さいころは、よくこういう会話を

きいたことがあった。

 

「寝付いたらしまいやわ」と....。

 

つまり、起き上がれなくなってしまうと、もう

余命は短い、ということだ。

 

実際、点滴も自宅でするようなことはなかったし

昔は自宅で看取ることが普通だったので

ごく自然になくなることが多かった。

 

母がどれくらい生きられるのか、わからない。

なにか病変があるわけではないので、

余命何ヶ月、という話ではないからだ。

 

でも、母は母なりに、もう十分自分の人生を

生きたんじゃないかな........

(そう思いたい、という気持ちもあるけれど)

 

ただただ、私たちは、できるだけ自然に

穏やかに、と願っている。

 

 

*今は姉夫婦が作ってくれている実家の

畑を少し手伝ってきました。

母は、野菜作りだけはアインシュタインなみだった。