
「一つひとつの言葉を大切にする」
何の気なしに誰かが言った言葉がすごく素敵だな。と思いました。
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昨日は香川県までお出かけ。
でーんと構える明石海峡大橋。
あの橋を見ると「ヒトはすごいなー。」とただ単純に感動する。っていうのがおなじみ。
写真におさめるのは何だか当たり前過ぎて野暮なことに思えるから、
感情と一緒に目の奥にでも焼き付けたいな。とか考えるけど、
自分も人間で、その後に綺麗な虹を見れば大切なものも上書きされてしまうわけで。
何かそれってすごく刹那的だなー。とか思ったり。
そうやって感情を上書きする自分も人間なんだなー。と思ったり。
本当はそうやって心で感じたときはいつも涙が出そうになるけど、
世間体とか、シチュエーションとか、
大きくなってから身につけた社会性みたいなものが邪魔をしてハッと我に返って。
そうやって現実に引き戻される瞬間は、まだ砂場で遊びたいのに、
お母さんに連れられて公園をあとにする時のような感覚。
昔ピアノの先生が「エリーゼのために」を初めて弾いてくれてたとき、
突然泣きだしてしまって、先生を困らせたことがあって。
ルーブル美術館でドラクロアの「民衆を導く勝利の女神」を見た時も、
フェルメール展で「天秤を持つ女」を見た時も、
「綺麗だなぁ」と心が感じるやいなや、立ち尽くして少し泣いた。
だけど、本当は綺麗だと感じた心と目の前にある綺麗なものの間に
すごく距離を感じていて、その距離が縮まらないことが哀しく思えるのかもしれない。
今に比べてまだ幼かったあの頃、少しでもヴェートーベンに近づきたくて、
とても分厚い彼の伝記を母親に買ってもらった。
「エリーゼのために」を弾けた時、ピアノを卒業しよう。
幼いながらにそんなことを考えていたけど、私は未だにあの曲をちゃんと弾けない。
先生に合格点をもらったからではなく。
自分が納得したからではなく。
ただ発表会で弾いたことを機に練習することがなくなった。
私があの曲を二度と弾かなくなったのは、私の耳が彼の音楽を捉えてしまっていて、
目の前に広がる音符の羅列に何の意味もないと感じてしまったからなのかもしれない。
言葉や記号は自分の中から出て行くやいなや、
視覚や聴覚で捉えられるものになってしまうやいなや、
何かとてもちっぽけなものに感じてしまう。
何故なんだろう。
私が今こうやって綴る文字も、
私の中から生まれた直後に賞味期限のようなものが切れてしまっていて、
文字にしてしまえば全く違うもののように感じてしまう。
思って、指がそれを綴って、文字になる。
だけど、思った瞬間に腐食が始まってしまう。
1秒前なんかもう大昔みたい。
そのくせどうでもいいようなことをどんどん口走って、
「なんであんなこと言っちゃったんだろう」って、
誰も見てない場所で自分を責めてしまう。
「一つひとつの言葉を大切にする」
あとどれくらいすればその言葉の本当の意味がストンと自分の中に落ちて。
誰かに投げかける言葉に言葉以上の何かを乗せることが出来るんだろう。
大切な言葉を大切な気持ちと一緒に選んで。
大切な人だけに届けられる人間になりたい。