ここで、日本国憲法の制定過程を簡単におさらいしましょう。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦を受け入れました。日本にとって未曾有の出来事である敗戦による混乱を収めることを使命として、皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が内閣を組織します。東久邇宮内閣が占領軍の横暴に抗議して総辞職すると、幣原喜重郎が後継内閣として任に当たります。幣原は、戦前はオールドリベラリストと呼ばれた対米協調派です。その幣原内閣成立直後の10月11日、占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは幣原首相に大日本帝国憲法の改正を示唆します。
ほかのことでは一切の抗弁を許さず、「やれ!」の一言で済ませてきたマッカーサーが、こと憲法問題に関しては示唆にとどめています。つまり、最初は「憲法を変えろ」ではなく、「変えた方がいいんやない?」と猫なで声だったのです。もしここでマッカーサーが「憲法を変えろ!」と命令していたら、慣習国際法・ハーグ陸戦法規・ポツダム宣言に違反します。マッカーサーは日本でこそ「神より偉い」などと威張り散らしいますが、アメリカ本国からすればタダの使い走りにすぎません。占領地の日本で憲法の押し付けなどという露骨な国際法違反をしでかすわけにはいかなかったのです。
幣原内閣は松本烝治法学者を憲法担当大臣に据え、帝国憲法の改正を審議します。松本は、幣原と同じくオールドリベラリストで、名前の由来が「ジョージ・ワシントン」という親米派です。松本博士を委員長として日本政府は美濃部達吉東大教授や清水澄枢密院議長ら多くの専門家を集めて改正案を審議しました。これには占領軍も干渉せず、日本政府は帝国憲法の改正案を「松本案」としてまとめます。こんにちのほとんど全ての教科書で「明治憲法の焼き直しにすぎなかった」などと評されるのが松本案です。
1946年2月1日、毎日新聞のスクープで松本案の内容を知ったマッカーサーは、対抗するかのように独自の憲法草案を作成します。マッカーサーノートと呼ばれる走り書きを基に、下僚たちが約1週間で作成したのが、今の日本国憲法の原案です。草案は民政局が中心となって作成したのですが、全員が憲法については素人です。その素人たちが戦災から焼け残った日比谷図書館に通い、世界中の憲法から自分たちが気に入った条文を引き抜いて掛け合わしたパッチワークが、日本国憲法の草案なのです。
幣原首相や松本大臣は抵抗しましたが、マッカーサーは遠回しな言い方で「もしこの案を拒否したら天皇の命がどうなっても知らないぞ」などと脅迫し、抵抗のすべを持たない日本政府は遂に受け入れることとなります。
3月6日、日本国政府の名で「憲法改正要綱」を発表することになります。以後、占領軍は条文審議の一字一句にまで介入してきます。「日本政府が自分で言い出したことなので」という名目で、遠慮しなくなったのです。日本政府は、法律として最低限運用できるように修正することしかできませんでした。首相は吉田茂(5月22日就任)、憲法担当大臣は金森徳次郎に代わっていました。
そして、総選挙を経た衆議院の審議を経て、貴族院と枢密院で可決されます。帝国憲法の改正手続きに従い、条文を全面改正するかたちで日本国憲法が制定されます。11月3日、天皇の名で公布され、翌1947年5月3日に施行、誤植(第7条第4号)も含めて一字一句たりとも改正されることなく、今に至ります。
参考文献
倉山満『帝国憲法の真実』(扶桑社新書)
