キリスト教の克服から絶対主義が形成される
暗黒のヨーロッパ中世末期、教会の支配から逃れようとする人々の勢力が強まった。宗教的熱狂から覚めた君主たちは、ローマ教会の影響を排除しようとした。イングランドのヘンリー8世やエリザベス1世、フランスのアンリ4世、ネーデルランド(オランダ)のウィルレムなどである。絶対主義の形成である。
自己の王権を強化しようとする動きは、宗教教団の束縛から脱却した世俗の政府を形成していく。すなわち、政教分離(Separation of Church and State)である。絶対君主の利己的な動きこそが、近代化の萌芽であった。
この4人の中で、最も利己的だったのは明らかにヘンリー8世である。離婚がしたい、ただそれだけの理由で彼はローマカトリックを捨て、独自の英国国教会(聖公会)を設立した。その後、7人の王妃を取り換え、そのうち4人を姦通の濡れ衣を着せて断頭台送りにしたヘンリー8世の人格は、間違いなく破綻している。
当然ながらバチカンはヘンリー8世を破門したので、国教会はプロテスタントに分類されるが、その教義はカトリックそのものである。急ごしらえの宗教にすぎなかった。しかし、世俗の国王が自由に宗教を捨てたりつくったりできる。もはや十字軍の時代のような教会の権威は、ブリテン島では通じないことを、この事件は示した。
当時のイングランドは、ウェールズこそ併合しているが、北のハドリアヌスの向こうに強敵スコットランドが控えていた。
我々日本人は、イギリス(ブリテン)を一つの国民国家だとみなすが、現在でもサッカーやラグビーのワールドカップでは、別々に出場するイングランド、ウェールズ、スコットランドの排他的民族性を思い知らされる。
当時のイングランドは、熟練した弓兵こそ勇猛果敢で知られていたが、まだまだ欧州の小国である。しかし16世紀の大航海時代、ポルトガルやスペインの海洋覇権に何度も挑戦している新興国でもある。
1493年、教皇アレクサンドル6世がトリデシリャス条約を制定し、教皇子午線より東はポルトガル、西はスペインと勢力範囲を分割を宣言した際、異を唱えた国が2つある。
1つがイングランドである。イングランドは以後200年間、世界中で海賊行為を行い、この両国に嫌がらせをし続ける。
ちなみに、もう1つは地図で引いた教皇子午線で地球の真裏にあたる日本である。
フランス最大の英雄は、ナポレオン・ボナパルトではなくアンリ4世
ドーバー海峡を挟んだ隣国フランスでは、王位継承問題に宗教問題が絡んだ三アンリの戦い(1585年~1588年)が繰り広げられていた。
アルビジョア十字軍によるベジエの大虐殺(1209年、ローマ教皇インノケンティウス3世が、南フランスで盛んだったカタリ派を征伐するために派遣した十字軍により、南フランスの都市ベジエで行われた無差別大量虐殺事件)以来、フランスはカトリックの勢力が強い。
しかし、バチカンの支配を嫌う勢力はユグノー(カルヴァン派)として結集し、血みどろの争いが40年も続いていた。ユグノー戦争(1562年~1598年)である。
これを統一したのが、アンリ4世である。アンリ4世の即位により、ブルボン朝(1589年~1792年)が成立する。
アンリ4世はプロテスタントの代表者であったが、カトリックに改宗することで統一を達成した。
また、ナントの勅令(1598年)で信教の自由を認めた。あまりにも激しい宗教戦争の歴史を持つフランスだからこそ、他のヨーロッパに先駆けて融和的政策が受け入れられたのである。一言でまとめれば、「殺し疲れた」のである。
フランスは、東にオーストリアのウィーンを中心に根を張る神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)、西に巨大な海外植民地を持つスペインの「双頭の鷲」に襲撃される位置にある。
国内に宗教紛争を抱えつつ、外交的にはハプスブルク家とバチカンの陰謀に敗れながらも、軍事的には常に侵略を防ぎ続けた。
このような状況下にあったフランスは、ヨーロッパの中で真っ先にイスラム国であるオスマンと親交を結ぶ。宗教的侵攻よりも、地政学や軍事的力関係を理由に外交行動を選択したのもまた、フランスがヨーロッパで最初なのである。
日本がオランダとだけ交易をした理由とは?
ハプスブルク領のネーデルランド(オランダ)では、80年に及ぶ独立戦争が起こる。いわゆる八十年戦争(1568年~1648年)である。これは経済的に力をつけた新興ブルジョワジーが、地元貴族を押し立てて起こした戦いである。
80年に及ぶ戦いの最中、ネーデルランドは事実上の独立を果たし、世界中で植民地争奪を行い、そして三十年戦争(1618年~1648年)に突入する。ネーデルランドは欧州における領域こそ少なかったが、世界各地で覇を競い、日本にまで訪れる大海洋勢力に成長する。
こうした経済的利益によって始まった戦いが、宗教を理由にして終わらないことは往々にしてある。ネーデルランドとハプスブルク家の抗争がまさにそれであった。
ネーデルランドの絶頂期はオレンジ公が君主の時代である。経済力に基づく大海軍は、スペインやイングランドを圧倒した。インドネシアではイングランドがオランダ海軍に完敗し、東アジアから100年の撤退を強いられるほどである。
ちなみに、欧州において三十年戦争が繰り広げられていた時代、江戸幕府は「鎖国」と称する武将中立を行い、ポルトガル、スペイン、イングランドとの公益を絶ち、オランダとだけ交易を続けていた。
日本はなぜオランダとだけ交易したのか。カトリックを拒絶するためである。江戸幕府はカトリックが侵略のためにキリスト教を布教していることを知っていた。だからプロテスタントであるオランダとは通商を続けていたのである(イングランドと交易しなかったのは、オランダとの抗争に敗れて自ら東アジアを去っていたため)。
絶対王権の構築理論が、国家主権の原点になる
主権とは何か。主権とはそもそも、「地上において主(God)の力を代行する権力」のことである。
この主権という考え方は、キリスト教の支配を脱し、国王の支配を正当化するために、フランス(ブルボン朝)ではじめて使われた。
主権という概念は誰が考え出したのか。その源流をつかさどれば、フランスの異端審問官ジャン・ボダンが記した『国家論』に行き着く。観察と実践による魔女狩りの専門家であったボダンが、近代政治学において最も重要な概念を発明したのは皮肉である。
ボダンが生きた中世末期のフランスは、三アンリの戦いの余波でモザイク模様の宗教分布になっていた。アンリ4世がカトリックに改宗して国教をカトリックに定めたといっても、ユグノー(プロテスタント)の抵抗は激しく、さらに貴族の反乱が結びついて、歴代国王は悩まされ続けた。教会や貴族がバラバラに土地を支配しているのでまとまりがない。
だから、国王に権力を集中して国家を統合しようという理論が生まれた。それが絶対主義であり、事実、ボダンの理論は王権によるフランス統一に貢献した。
バラバラであったフランスを一つにまとめるため、フランス国王ルイ13世の宰相リシュリューと、その後継者にしてルイ14世親政までの路線を引いたマザランにより、フランスは序々に絶対主義の体制に移行していく。
リシュリューとマザランは、具体的に次の5つの面で絶対主義を確立していった。
1つは、王権神授である。王の権力は神(主=God)から与えられたものであり、地上においては絶対の存在であるとの宣言である。
2つは、宗教勢力と諸侯の鎮圧である。リシュリュー統治の前半は、欧州全土を巻き込んだ三十年戦争に外交的に介入しながら(もちろんスパイ活動や種々の工作を含む)、軍事的には内政に専念することにより、王権を確立していった。
ちなみに、室町幕府や江戸幕府は権力の誇示として「参勤交代」を諸大名に行わせたが、フランスの場合は、ルイ14世の時代に貴族たちがヴェルサイユ宮殿周辺に集められた。
3つは、官僚主義である。言わずと知れたヨーロッパ貴族社会において、身分にとらわれず有能な人材を登用するための制度が官僚制である。現在のフランスは極端な中央集権の官僚国家であるが、試験制度はルイ14世の時代に本格的に導入された。
4つは、常備軍である。リシュリューは国王親衛隊としての常備軍を率いて自ら戦場を駆け回った。ただし、この段階の常備軍は金で雇った傭兵である。
5つは、重商主義である。貿易を盛んにし、国富を蓄えた。
リシュリュー枢機卿は権謀術数でフランス内外から恨みを買い、宗教者としての道徳的評判を落としたが、政治家としては稀に見る無私の人であった。彼が口にした「私の第一の目標は国王の尊厳、第二は国家の盛大」は、国家理性と呼ばれる。宗教でも貴族の特権でもなく、「お国のため」という思想を最優先に考えた。
国家主義がいかに穏健な思想か、わかるであろうか。
現在の日本では、この「国家主義こそ悪の思想」だという見方をする人が多いが、歴史を知らないとしかいいようがない。国家主義とは、歴史上、最も穏健な思想なのである。
リシュリューは絶対主義を押し立てつつ、国家主義を展開した。国家主義とは、「国内のいかなる者も支配に従わせること」と「国外のいかなる者からも干渉を受けないこと」であるが、リシュリューは絶対王権を確立することで、この2つの意味での国家主義を実現していったのである。
リシュリューは、同時代のカトリックとプロテスタントが殺し合いを続けた三十年戦争には直接介入を避け、内政に専念した。そして、1636年に満を持して介入したが、このときはプロテスタント側についてカトリックのハプスブルク家を攻撃した。ここに、宗派により敵と味方が分かれる宗教戦争が終焉へと至るのである。世俗的な利己主義こそが、正義を唱える悲惨な宗教戦争を終わらせたのである。
欧州各国はフランスに倣い、絶対主義そして主権国家への道を歩むのであるが、そうした主権国家が並立することにより、無制限の殺し合いではない目的限定戦争が可能となっていくのである。
ちなみに日本では、フランスがやる200年も前に室町幕府の6代将軍・足利義教(よしのり)が絶対主義を確立しているのであるが、いかに日本国が、野蛮な欧州より思想の面において先進的であるかということがわかろうというものである。