「っ!」
なに、今の。
気が付くと、僕は固いベッドの上で眠らされていた。手首に痛みを感じ視線を向けると点滴の管が刺さっていた。口元には呼吸を促す四角い装置が着けられている。手のひらを握ると汗でびっしょりと濡れていた。息が上手く吸えない。ぜえぜえという音が唇から漏れていく。
「ここ、どこ」
視線を横に移しながら室内を見渡した。壁一面には大きな棚が据え付けられていた。何十年も前のものなのだろうか。ほとんどの本が黄ばんでいる。ベッドの横には古い木製の机があり、その机上にはまだ湯気の出ているコーヒーが置かれていた。誰のだろう。耳を澄ますが、自分の息遣いしか聞こえない。視線を移し、床に目をやると僕は愕然とした。なんて汚いんだろう。どこもかしこも書類ばかりだ。汚物があるとか、そういう汚さではなく、単に片付けられていないという意味だけど。あまりにも酷い。片づけのできない人の部屋なのだろうか。知り合いたちの顔を思い浮かべてみたが、ここまで片づけ下手な人はいなかった。
一体、ここはどこなんだ。
溜息をつきながら目を閉じる。何度も何度も同じ問が頭の中で低回した。さっきの景色は何だったのか。ここはどこなのか。分からない。いくら考えても分からなかった。
諦めて眠ろうと思考を止めかけたとき、ふいに扉が開いた。ギィッと重たい音がする。足音がこちらへ向かってきた。誰だろう。気になるが、なぜだか目を開けるのが恐くて閉じたままでいると、足音が真横で止まった。誰。ゆっくりと目を開けると、瞼のすぐ目の前に綺麗な顔が現れた。
「やあ、こんにちは」
「……こんにちは」
「怖がらなくていいよ。気分はどう?顔色は良さそうだね。呼吸も問題なさそうだ。そのままでは喋りづらいだろうから装置を取り外そうか。ちょっと待っていてね」
男は真っ白な腕を、僕の頭の後ろにまわし、金具を取り外した。そして、口元の装置を取ると、真っ青な瞳を細めにこりと微笑んだ。同時に灰色の髪がふわりと揺れる。なんだろう。この人、すごく不思議な感覚がする。見透かされているような、何とも言えない雰囲気を纏っていた。
男は装置を机上に置くと、すぐ近くに置いてあったロッキングチェアをベッドの横にもってきて、そこに座った。改めて彼の顔をじっくりと見る。僕よりも、いくらか、いや、だいぶ年齢は上のようだ。僕は八歳だから、きっと三十くらいだろう。はたして、そんな知り合いはいただろうか。いくら考えても思い出せない。初めて見る顔だ。
なにより、こんな格好をしている人を僕は初めて見た。一体、どこの所属なんだ。僕ら運び屋はベージュのフリルブラウスの上に茶色いベストを着て、こげ茶のベレー帽を被っている。ベストの下には茶色いチェックのハーフパンツ、女は男と同じ色柄の膝下スカートを履いている。対して、男は黒いリボンタイ付きの白ブラウスを身に着け、黒いワイドパンツを履いていた。その上には、これまた黒のロングコートを羽織っており、帽子は被っていないが、水色のピアスを付けていた。
こんな見た目の人は見たことがない。じっと見つめていると、男は不思議そうに笑った。
「どうかした?」
なんて聞けばいいんだろう。目を泳がせていると、男は言った。
「君はどうしてここにいるか覚えているかい?」
「どうしてここにいるのか……」
「そう。君はあの日から三日間も眠っていたんだよ。覚えているかい?」
三日間?眠っていたって。それより、あの日って、なんだっけ。脳内の記憶を探る。そう言えば、キューブを回収して、それで、躓いて転んで。ああ、そうだ。転んだんだ。その拍子にキューブが降ってきて。液体を被って……。
思い出した。それにしても、あれが三日前って。そんなにも時が経っていたのか。悪い夢を見ていたせいで時間間隔がほとんどない。一
体、あの夢は何だったのだろう。男のほうを見て、僕は尋ねた。
「あの、僕、寝ている間、ずっと夢を見ていて」
「夢?」
男は興味深そうに聞き返す。
「はい。女の人の声がずっと聞こえてきて。それだけなんです。景色とかはなくて。ただ声だけが聞こえたんです」
「声、ねぇ」
そう言いながら、男は顎を人差し指でさすった。
「ルイ君、それはきっと人間の負の感情だよ」
「負の感情?」
「そう。君はキューブと衝突した原因で自分が昏睡状態に陥ったと思っているかい?それなら、それは大きな間違いだ。君が昏睡状態に
陥ったのは、膨大な負の感情に飲み込まれたからだ。そのお陰でここに運ばれることになったんだしね」
「はぁ……」
「理解ができないかい?まあ、いいさ。しかし、君のそのデータはとても興味深いね。寝ている間、負の感情を読み取れるのか。本当に興味深い」
興味深いって言われても。釈然としない。男は相変わらず顎をさすりながら何かを考えている。訳が分からない。流れていく時間に耐えられず俯こうとしたとき、男が僕の頬を両の掌で包み込んだ。
「君のデータが欲しい」
真っすぐと瞳を見つめられる。なんだよ、これ。男のキラキラとした灰色の瞳の中には僕が映っていた。それに気づくと自然と体内の温度が上がっていくのを感じた。
僕が動揺しているのを察すると、男は申し訳なさそうに掌を離した。
「あぁ、ごめんよ。驚かせてしまったね」
男は立ち上がりながら言った。
「君の得た情報は、とても価値のあるものだ。いいかい?価値のあるものなんだよ。特にここにとってはね。だから、僕は君のデータが欲しい」
「はぁ……」
「まぁ、いい。とりあえず、君は浄化装置に入るのが先だ。あれだけの感情を浴びてるんだ。早めのほうがいい。今、助手を呼ぶから待っていてね。データの話はあとだ。君が浄化している間に上の者にハンコを押させるよ」
なんなんだ、この人。一体、何の話をしているんだろう。
男はいそいそと扉へ向かい叫んだ。そして、慌ただしそうに床の書類をかき集める。片づけていないからそんなことになるのだ。書類を手に入れると、今度はハンコハンコと言いながら散らばった床の上を捜索し始めた。訳が分からない。呆れて視線を外すと、そこには青色のハンコが落ちていた。僕は、少し迷ったあと、それを手に取り、男の元へ届けた。
「あの、落ちてましたよ」
話しかけると、男は嬉しそうにハンコを受け取った。
「素晴らしい!君は捜索のプロだね」
「いや、たまたまですよ。それより、片付けはしないんですか?」
そう聞くと、今度は男は困ったように頭を掻いた。
「うーん。やりたいのは山々なんだけど、僕も助手も大忙しでね。時間がないんだ。君は片付けは得意かい?」
「人並みにはできますよ」
「そうか。それなら、それを口実にしよう。君は今日からここのハウスキーパーだ」
嬉しそうに頷かれる。ハウスキーパー?冗談じゃない。なんだよ、それ。僕はそんなことをするためにここにいるんじゃない。なんで正体不明の男の世話をしなければいけないのだ。そもそも僕には運び屋という素晴らしい仕事があるんだ。仕事を放棄するわけにはいかない。男に、そう訴えると、楽しそうに笑われた。
「そんなこと気にすることないさ。君が抜けたって代わりはいる。あそこは常に飽和状態だろう?一人抜けたって仕事は回るよ」
「いや、そうですけど」
直球で言われると、やはり悔しい。
「まぁ、君の上司には僕から伝えとくよ。ルイ君は抜けますってね」
「そんな簡単に……」
僕が戸惑っていると、男は扉の方を見ていった。
「お、助手が来たようだね。さあ、浄化しておいで」
視線の先に目を移すと、赤い長髪を束ねた黒服の青年が立っていた。男と同じ服を着ている。青年は僕を見ると、犬のように近づいてきた。
「はじめまして、先生の助手のシャルルです。感情に飲まれちゃったんだよね?大変だったね。早く浄化装置へ向かいましょう」
「あ、はい」
それにしても先生って。こんな先生いたかな。研修生時代、一度も目にしたことがない。一体、誰なんだ。それに、ここは一体。
疑問に思いながらもシャルルに手首を掴まれ歩かされる。赤い綺麗な髪が左右に揺れている。一本一本の毛が照明の光粒に反射して光っていた。あれ、この光景。どこかで。
扉から出る際、どうしても気になって、男の方を振り返り尋ねた。
「あの、あなたは一体、何者なんですか」
男は笑っていった。
「僕?名乗っていなかったかな。これは失礼。僕はアンリ・ファクティス。この国の浄化屋だよ」
浄化屋?
シャルルに引っ張られるように僕は扉の向こうへ連れ出された。