手垢のついた、黄ばんだ長方形の紙。それは、幼い頃に千年から貰った武道館のチケットだった。千年はそれを拾い上げると、懐かしそうに眺めた。
「お前、まだこれ持ってたのかよ」
言葉では馬鹿にしているように聞こえたが、その表情は緩み嬉しさを隠しきれていなかった。
捨てれるわけがない。あの日のことは一生忘れない。指切りをしたての感触を僕はまだ覚えている。
「武道館、連れてってくれるんでしょ?」
僕がそう言うと、千年は苦笑を浮かべた。
「まあな。でも、お前このチケットじゃ…」
と、その時、机の上にビールがぶっかけられた。何事かと思い、ビールの飛んできた方を見ると、そこは隣の座敷で、どんちゃん騒ぎをし
ていた最中だったようだ。僕らがそちらを見た瞬間、その騒ぎは水を打ったように静かになり、一瞬にして店内の時が止まった。
机の上の浸水は酷く、大切にしてきたチケットももちろん水浸しになってしまった。隣の客たちはすぐに謝ってきたが、やはり落胆は隠せない。そんな僕に向かって千年は言った。
「これ、お前にやるよ」
「え」
「ほら、手出して」
右手を差し出すと、そこに何かを押し付けられる。見ると、なんとそこには紛れもない正真正銘の武道館のチケットがあった。
「これって…」
「俺のバンド。来月、武道館でやるんだ。遅くなってごめんな」
掌に置かれたチケットは、今まで見てきたどんなチケットよりも輝いて見えた。表紙にははっきりと千年のバンド名が記載されている。ちゃんと読める楷書でプリントされていた。濁点付きの汚いひらがなじゃなくて、武道館の文字は漢字で書かれていた。
「そっか。そっか、千年…」
僕は嬉しくて思わず涙をこぼした。約束なんて守れないから、しないほうがいいし、絶対なんてないから、指切りもしない方がいい。そう思って生きてきた。
大人になるにつれて、やりたい事が制限されて、うまくいかないことが増えた。イライラすることも増えた。それは全部、大人になったせいだと思っていた。我慢することも、嫌な思いをすることも、それらは全て大人になることだと思っていた。
けれど、目の前のこの男は僕との約束を守ってくれたのだ。ずっと前に交わした幼い頃の約束を。忘れずに、守ってくれた。千年はずっと千年で居続けたんだ。夢を諦めずに、自分に正直で居続けた結果なんだ。
「千年、ありがとう」
僕の言葉に千年はニカッと笑った。
その後、僕らは居酒屋を出てそれぞれ帰路に着いた。幸い、衣服などは濡れておらず、浸水事件は平和的解決となった。
家に帰り、僕は寝室へと向かった。ベッドの上には背中を丸めた妻の姿があった。僕はその背中に抱きつき、精一杯謝った。大人げないかもしれない。けれど、僕はそれでいいと思った。
妻は僕が平謝りするのを見て困惑したが、次第に落ち着きを取り戻し、僕を優しく抱きしめてくれた。体が温かくなっていく。もうイライラなんてなくなっていた。
やがて、掌につつまれたチケットを見つけると、妻は不思議そうにそれを見つめた。
「なあに、これ」
「ん?」
「武道館?」
「そう、武道館」
「なんでこんなの持ってるのよ」
「聞きたい?」
「うん」
「じゃあ、話してあげる。すごく長い昔話なんだけどね」
僕は妻を抱きしめながらゆっくりと思い出を話し始めた。