大人になること(2) | かくれんぼ

かくれんぼ

私の物語の待避所です。
よかったら読んでいってください。

 

 

ただいま。

 

そう言いながら、玄関のドアを開けると、奥のリビングから聞こえていたはずの水音がぴたりと止まった。妻だ。僕は胸をざわつかせながらドアを閉めた。

 

築一年と経っていない真新しいマンション。駅からも近い三十階建ての高層マンションはそれなりの値段もしたが、買えない値段ではなかったので即金した。部屋数も多く、二人で住むには十分すぎるほどの広さだ。

 

リビングのドアを開け、妻の姿を確認する。妻は先ほどまでキッチンで洗い物をしていたらしく、対面式の窓から顔をのぞかせた。

 

「おかえりなさい。遅かったわね」

 

表情のない顔で言われる。

 

「そう?でも、会社から帰ってくるなんて大体このくらいの時間でしょ」

 

時計の方に視線を移す。指針は八時半を指していた。決して早いわけではないが、遅いということもないだろう。ネクタイを片手で緩めな

がら椅子に手をかける。そんな僕を見て妻はため息を吐いた。

 

「ねえ、結婚式どうするの」

 

「え?」

 

「だから、結婚式。智浩、全然手伝ってくれないじゃない」

 

そう言いながら妻は机の上に結婚情報誌をいくつ放り投げるようにして置いた。式場案内誌からウェディングドレスのカタログまで。いつ取り寄せたのか分からないものも多くあった。

 

二か月前、妻と僕は籍を入れた。しかし、まだ結婚式は挙げておらず、その内、仕事に忙殺される中でその存在さえもすっかり忘れてしまっていた。

 

「結婚式か。優子はどこがいいとかある?」

 

僕の言葉に妻は呆れた顔をした。

 

「式場はこの前決めたでしょ。なんで覚えてないのよ」

 

ああ、と生返事を返しながら頭の中でどこだったかを思い出す。確か、青山か表参道辺りだった気がする。誌面を適当に捲りながら決めたのでほとんど覚えていない。解いたネクタイを椅子の上に置き、何か食べるものはないかとキッチンへと向かった。そんな僕の背中に向かって妻が言う。

 

「それで、智浩にはご両親に式の連絡をしたり、披露宴で誰を呼ぶかとかを決めといて欲しいんだけど」

 

「ん、おっけ」

 

「ちゃんとやっておいてよね」

 

妻の言い方はぞんざいで苛立っていた。結婚する前までの彼女とは似ても似つかない。温厚だった彼女はどこへ行ったのだろ。

冷蔵庫の中を見てみたが、パッとしたものは置かれていない。野菜や果物も、まちまちしたものは残っているが、料理を作る気にはなれなかった。

 

「優子、インスタントってどこに入ってるの」

 

雑誌を捲っていた手が止まる。

 

「右の棚の緑の籠の中」

 

言われたとおりに探すとすぐに見つかった。

 

「あった。ありがとう」

 

籠の中から白地に赤の文字が書かれたお馴染みのカップラーメンを取り出す。そんな僕を見ながら妻は言った。

 

「こんな時間にカップラーメン?太るんじゃない?」

 

「いや、これしか食べるものないし。作るのめんどくさいし」

 

「そう」

 

なんだよ。妻の苛立ちが伝染したかのようにむかむかした感情が心の中を支配した。乱暴にカップラーメンの蓋を剥き、お湯を注ぐ。箸蓋を抑えながらリビングへと向かって行った。妻は僕の方をちらりと見るが、すぐに視線を外し結婚情報誌に目を戻す。その中の男女は嬉しそうに頬を摺り寄せ幸せを噛みしめていた。そんな彼らの顔を僕らに差し替えて想像するなど、今の僕には不可能だった。

 

気分を晴らそうとテレビのリモコンを探すが、あいにく見つからない。長い沈黙が重くのしかかる。それはまるで、排水溝のヘドロのように気持ち悪く絡みついてくる。秒針の進む音だけが広い室内に響いた。

 

「ねえ」

 

妻の声が沈黙を切り裂いた。

 

「なに」

 

「来週、私の両親来るから」

 

「は?来週のいつ?」

 

「土曜日」

 

「無理だよ。僕、その日仕事が入ってる」

 

手帳を取り出し確認するが、その日は休みではなかった。

 

「休めないの、それ」

 

「無理に決まってるよ。仕事なんだから」

 

その言葉に妻は遂にキレた。

 

「なによ、仕事仕事って。少しは私のためになってくれてもいいんじゃないの?自分にしか興味ないの?毎日帰りは遅いし。私達、やっぱりまだ結婚なんて早かったのかもね。あなたが言うから渋々籍入れたんだし。失敗だったんじゃない?」

 

「そんなこと…」

 

「うるさい!」

 

鋭い叫び声が虚空に消えた。妻はしまったというような顔をしながらも、はっきりとした足取りでリビングを出ていく。冷たい部屋にただ一人残される。机の上の花嫁たちが悲しい顔をしたような気がした。

 

妻を追いかけるべきだろうか。しかし、僕の足は一向に動かない。追いかける気などさらさらないことに気が付いた。それくらい僕の心は冷めきっていたのだ。目の前のカップラーメンはもう伸び切っていて、食べる気にはなれなかった。

 

はあ、と溜息を吐きながらクラッチバックを手に取る。こんな状態の家にいても仕方ない。気晴らしに外でも行こう。そう開き直り、僕は夜の街へと出かけた。